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マジドッディーン・フィールーザーバーディー

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
フィールーザーバーディーの代表的な著作『カームース・ムヒート』の冒頭ページ

マジドッディーン・フィールーザーバーディーペルシア語: مجدالدین فیروزآبادی‎, EIr(2012)方式ラテン文字転写: Majid al-Dīn Fīrūzābādī; 1329年生-1415年歿)は、『カームース・ムヒートアラビア語版』というアラビア語の辞書を編纂したことで知られる14-15世紀ペルシア出身の学者[1]。辞書編纂学者、作家、翻訳者、裁判官(カーディー)、シャーフィイー派法学者[2]

名前

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フィールーザーバーディーの、より詳細な名前(クンヤとイスム)は、アブー・ターヒル・ムハンマド・ブン・ヤアクーブ・ブン・ムハンマド・ブン・イブラーヒームという[1]。マジドッディーンのラカブがあり、シャーフィイー、シーラーズィー、フィールーザーバーディーのニスバがある[1]。「フィールーザーバーディー」のニスバは、父親の出身地(フィールーザーバード)に基づく[1]。「シーラーズィー」のニスバは当人がシーラーズで学んだことによる[1]

フィールーザーバーディー自身は、父系リニージを遡るとアブー・バクルの子孫とされるシャイフ・アブー・イスハーク・シーラーズィーがいるとして、みずから「敬虔な人の子孫」を意味する「スィッディーキー」という別名を名乗ることを好んだ。

生涯

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19-20世紀の東洋学者ブロッケルマン英語版が「アラビア語辞書編纂学の研究」という論文で、複数の資料を比較衡量してフィールーザーバーディーの生涯を再構成している[1]。以下の記述は主にこの論文に基づく[1]

フィールーザーバーディーは、ヒジュラ暦729年第2ラビー月又は第2ジュマーダー月(1329年2月か4月ごろ)に、カーゼルーンで生まれた[1][注釈 1]。生地で7歳のときまでに聖典クルアーンの章句をすべておぼえ、暗誦者になった。8歳のときにシーラーズへ行き、そこのウラマーのところで見習いをした[2]。さらにワースィトで学んだ後、ヒジュラ暦745年(1344年前後)からバグダードで学んだ[1]。ヒジュラ暦750年(1349年前後)にダマスクスで、諸学をシャーフィイー派法学者のタキーッディーン・スブキーアラビア語版に学んだ[1]。ダマスクスではスブキーのほかにイブン・カイイムアラビア語版やハリール・マーリキー[注釈 2]にも学んだ。

伝記作家はその後のフィールーザーバーディーの生涯を「エルサレム時代」と「メッカ時代」と「イエメン時代」の3期に区分する[1]。師のスブキーとの出会いと同年(ヒジュラ歴750年)にフィールーザーバーディーは、師とともにエルサレムに移り住んだ[1]。そしてスブキーから師資相承を受け、若輩ながら弟子をとった[1]。エルサレムでの生活は10年間に及んだ[1]。その後、旅に出るが、どこを遍歴したかは伝記作家によって大幅に異なり、確かなことはわからない[1]。おそらくはカイロと小アジアを訪れたようである[1]

ヒジュラ歴770年(1368年前後)にフィールーザーバーディーはメッカに移住した[1]。20年ほど住んだのち、インドへ行くためメッカを旅立ち、デリーで5年間活動した[1]。ヒジュラ歴794年(1392年前後)、ティムール朝のスルターンの招きに応じてバグダードへ行った[1]。ティムール朝がパールス地方にまで勢力を拡大するとスルターンに伴いシーラーズにも行った[1]「跛行者」ティムールはフィールーザーバーディーに最大級の敬意を払ったが、故郷の町々は戦乱による破壊がはなはだしく、大学者を留めておけるだけの余力がなかった[1]。フィールーザーバーディーはホルモズから船に乗り、アラビア半島南部英語版へと向かった[1]

フィールーザーバーディーは、ヒジュラ暦796年第1ラビー月(1394年1月ごろ)にヤマン(イエメン)英語版にたどり着いた[1]。イエメンのスルターン、マリク・アシュラフ・イスマーイール・ブン・アッバース[注釈 3]はフィールーザーバーディーを気に入り、14箇月にわたってタイズの自邸に逗留させた[1]。マリク・アシュラフはさらに、797年ズルヒッジャ月6日(1395年9月22日)にフィールーザーバーディーをイエメンの大カーディー(裁判官長)に任命し、娘を結婚させたうえザビードに住まいを与えた[1]

ヒジュラ暦802年(1400年)にフィールーザーバーディーはメッカを巡礼し、かつて住んでいた自邸に3人の教師を置いて、穏健なマーリキー法学派マドラサとして運営していけるように整えた[1]。その翌年、マディーナにいるときに岳父マリク・アシュラフが亡くなったことを知った[1]。その後、ヒジュラ暦805年(1403年)にもメッカ巡礼をするが、この時はすぐにザビードに戻った[1]。フィールーザーバーディーはヒジュラ暦817年シャウワール月20日(1415年1月3日)にザビードで亡くなり[1]、シャイフ・イスマーイール・ジャブルーティー墓地[注釈 4]に葬られた。シャイフ・ラマダーン・アティーフィー(رمضان عطیفی)がフィールーザーバーディーの伝記を書き、顕彰している。

著作

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フィールーザーバーディーは、القاموس المحيط より詳細には、القاموس المحیط و القابوس الوسیط الجامع لما ذَهَبَ مِن کلام العرب شماطیط というアラビア語辞書を編纂した。4部からなり、最も重要な著作である。日本語では『言海』という訳題例がある。本項では便宜的に『カームース・ムヒートアラビア語版』と呼ぶ。


60巻からなるそれを要約し、للامع المعلم العجاب الجامع بین المحکم و العباب として2巻にまとめた。بصائر ذوی التمییز فی لطائف الکتاب العزیز は2巻本。

その他、フィールーザーバーディーの作ったタスニーフ形式の抒情詩が40ほど知られる。

注釈

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  1. ^ 『ブリタニカ百科事典』はフィールーザーバーディーの出生地をカールズィーンペルシア語版としている[2]
  2. ^ شیخ خلیل مالکی
  3. ^ al-Malik al-Ašraf Ismāʻīl b. ʻAbbās
  4. ^ شیخ اسماعیل جبروتی

出典

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  1. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v w x y z aa ab ac Fleisch, H. "al-Fīrūzābādī". Encyclopaedia Islamica. Vol. 2 (C-G) (2nd ed.). pp. 926–927.
  2. ^ a b c パブリックドメイン Chisholm, Hugh, ed. (1911). "Fairūzābādī". Encyclopædia Britannica (英語) (11th ed.). Cambridge University Press. 2019年11月6日閲覧