マジャル人のヨーロッパ侵攻
マジャル人のヨーロッパ侵攻 | |||||||||
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9世紀から10世紀のマジャル人の襲撃路。 | |||||||||
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衝突した勢力 | |||||||||
マジャル人 |
イタリア王国 東フランク王国 中部フランク王国 モラヴィア王国 東ローマ帝国 カタルーニャ諸邦 アンダルス 第一次ブルガリア帝国 ハザール 西フランク王国 パンノニア公国 クロアチア公国 クロアチア王国 セルビア公国 | ||||||||
指揮官 | |||||||||
アールパード ボガート ドゥルシャツ サラールド ブルチュー レヘル スール キサ アポル タクソニ |
イタリア王ベレンガーリオ1世 東フランク王ルートヴィヒ4世 バイエルン公ルイトポルト バイエルン公アルヌルフ 東フランク王ハインリヒ1世 東フランク王オットー1世 ロタリンギア公コンラート クロアチア王トミスラヴ セルビア公チャスラフ | ||||||||
戦力 | |||||||||
最大25,000人(時期により大差) | 最大40,000人 (同左) | ||||||||
被害者数 | |||||||||
ほとんどの戦いで微小 |
ほとんどの戦いで大損害 多くの都市、村、教会が掠奪破壊される |
マジャル人のヨーロッパ侵攻 (ハンガリー語: kalandozások, ドイツ語: Ungarneinfälle) では、9世紀から10世紀にかけてマジャル人(ハンガリー人)が大陸ヨーロッパ各地を蹂躙した諸遠征について述べる。この時代、ヨーロッパの大部分を支配していたカロリング帝国およびその後継諸国は、東のマジャル人、北のヴァイキング、南のアラブ人という三方の強力な敵の侵攻に苦しめられた[1][2]。
9世紀の終わりにパンノニア平原を征服したマジャル人は、西方の旧フランク王国の領域や南方の東ローマ帝国に何度も侵攻した。西方への遠征では数々の勝利をおさめ、イベリア半島や大西洋岸、イタリア半島南端まで至る広範な地域を蹂躙したが、955年のレヒフェルトの戦いで東フランク王国に決定的敗北を喫した。これは東フランク王国が神聖ローマ帝国となり、西欧の秩序が大きく変化するきっかけにもなった。その後も東ローマ帝国への侵入は続いた。次第にカルパチア盆地に落ち着いてカトリックを受容したマジャル人は、1000年にハンガリー王国を建国した。
歴史
[編集]「ハンガリー」征服以前(9世紀)
[編集]マジャル人に関する文献が登場するのは9世紀からである。811年、マジャル人は第一次ブルガリア帝国のクルムと同盟して東ローマ帝国のニケフォロス1世と戦っており、プリスカの戦いにも参加していた可能性がある[3]。ゲオルギオス・ハマルトロスによれば、837年にもブルガリア帝国がマジャル人との同盟を試みている[3][4]。コンスタンティノス7世の『帝国統治論』によれば、テオフォロス(在位:829年 - 842年)の時代、ハザールのカガンとベクが、マジャル人に対抗するためサルケル要塞を建ててもらえるよう東ローマ帝国に求めている[4]。この記録から、当時のマジャル人はハザールの唯一にして最大の敵としてマジャル人が勃興したということがうかがえる[4]。10世紀ペルシアの地理学者アフマド・イブン・ルスタは、ハザールがマジャール人などの攻撃に備えて防備を固めていたことに言及している[4]。
860/1年、ケルソネソス・タウリカのハザールのカガンの元へ向かっていた聖キュリロスの使節団がマジャル人に襲われたが、暴力的な事態には至らず、この遭遇は平和的に終わったという[3]。ムスリムの地理学者たちの記録によれば、マジャル人は恒常的に近隣の東スラヴ人を襲撃して奴隷とし、ケルチにおいて東ローマ帝国に売りさばいていた[5][6]。862年には、東フランク王国でマジャル人の侵攻が報告されている[7]。
881年、東フランク王国はマジャル人とカバール人の侵攻を受け、2度にわたり戦闘した。1度目はWenia(おそらくウィーン)でUngariと[7]、2度目はCulmite(おそらく現在のオーストリアのクルンベルク)でCowariと戦ったと記録されている[8]。892年、フルダ年代記によれば、東フランク王アルヌルフがモラヴィア王国に侵攻した際、マジャル人も彼に味方して出兵した[4][7]。893年以降、マジャル人は東ローマ帝国の提供した船でドナウ川を渡り、3度にわたって(ドナウ川、シリストラ、プレスラフ)ブルガリア帝国を破った[6]。894年、マジャル人は今度はモラヴィア王スヴァトプルク1世と組んでパンノニアに侵攻した[4][7]。
「ハンガリー」征服後 (10世紀)
[編集]896年ごろ[9]、おそらくアールパードに率いられ、マジャル人がカルパチア山脈を越えてカルパチア盆地に侵入した。
899年、マジャル人はブレンタ川の戦いでイタリア王ベレンガーリオ1世を破り、北イタリアに侵攻した。トレヴィーゾ、ヴィチェンツァ、ヴェローナ、ブレシア、ベルガモ、ミラノといった主だった都市は彼らに蹂躙された[6]。その後マジャル人は東フランク王国に従属する低パンノニア公ブラスラフを破り、901年には再びイタリアに侵攻した[10]。902年、マジャル人は北モラヴィアに侵攻し、モラヴィア王国を崩壊させた[6]。900年以降、彼らは毎年のように西欧カトリック圏や東ローマ帝国に侵攻した。905年、ベレンガーリオ1世はマジャル人と友好条約(amicitia)を結び、以後15年間マジャル人がイタリアに侵入することはなかった[11]。
907年から910年にかけて、マジャル人は少なくとも3度にわたりカロリング系帝国軍を撃破した[12]。907年、東フランク王ルートヴィヒ4世とバイエルン辺境伯ルイトポルトらがパンノニア奪還を目指して侵攻してきたが、ブレザラウシュプルツの戦いでマジャル人に惨敗した。その結果、マジャル人は逆に大モラヴィアやドイツ、フランスにまで抵抗を受けず襲撃の手を伸ばすことが出来た。908年8月3日、マジャル人はアイゼナッハの戦いでテューリンゲン公国軍を撃破した[8]。エギノ、ブルカルト両テューリンゲン公やヴュルツブルク司教ルドルフ1世らがこの戦いで戦死した[13]。910年、マジャル人は第一次レヒフェルトの戦いで再びルートヴィヒ4世を破った。
915年には、小規模なマジャル人の一団がドイツを突き抜けてブレーメンにまで到達している[14]。919年、ドイツ王コンラート1世が死去した後、マジャル人はザクセン、ロタリンギア、西フランクを蹂躙した。921年にはベレンガーリオ1世に雇われてその敵と戦い、922年にヴェローナを占領し、略奪した[15][11]。パヴィーア司教ヨハネスはベレンガーリオ1世に降伏したが、2年後の924年にはマジャル人の襲撃を被っている[16]。917年から925年にかけて、マジャル人はバーゼル、アルザス、ブルゴーニュ、プロヴァンス、ピレネーを襲撃している[14]。
925年ごろ、ドゥクリャ司祭の年代記(12世紀後半)によれば、クロアチア王トミスラヴがマジャル人を戦闘で破ったという[17]。ただし、この記録は他の文献で裏付けられる証拠がないため、信憑性に疑問が持たれている[17]。
926年、マジャル人はシュヴァーベンとアルザスを掠奪し、現在のルクセンブルクにあたる地域や大西洋岸にまで達した[11]。927年、教皇ヨハネス10世の兄弟のペトルスという人物が、マジャル人にイタリアを統治するよう求めた[11]。マジャル人はローマまで進軍し、トスカーナとタレントで莫大な貢納を獲得した[11][14]。933年、大規模なマジャル人の軍団が、停戦が失効したザクセンへ侵攻したが、リアデの戦いで東フランク王兼ザクセン公のハインリヒ1世に敗れた[11]。それでもマジャル人の勢いは止まらず、935年には上ブルグントを、936年には再びザクセンを襲った[11]。937年、彼らはフランスに侵攻し、ランス、ロタリンギア、シュヴァーベン、フランケン、ブルゴーニュ公国[18]を襲い、さらにはイタリアに侵攻して南端のオトラントにまで達した[11]。さらにブルガリアや東ローマ帝国に侵攻し、コンスタンティノープルの城壁に達した。東ローマ帝国は15年にわたりマジャル人に「税」を収めることになった[19]。938年、マジャル人は立て続けにザクセンに侵攻した[11]。940年にはローマ周辺を荒らした[11]。942年、アンダルスの歴史家イブン・ハイヤーンによれば、マジャル人はイベリア半島に侵攻してカタルーニャを荒らした(マジャル人のイベリア侵攻)[20][21]。947年、ブルチュー・ハルカ率いるマジャル人がイタリアに侵攻し[22]、プッリャまで至った。イタリア王ベレンガーリオ2世は、莫大な貢納金を積んで和を結ばざるを得なかった。
955年、マジャル人はアウクスブルクの南で東フランク王オットー1世と衝突した。この第二次レヒフェルトの戦いで、マジャル人は5000人の戦士を失う決定的敗北を喫し、彼らの西欧への侵攻は終わりを告げた。ただ、東ローマ帝国への侵攻は970年まで続いた。
全体として、マジャル人はヨーロッパ各地へ45回(ナジ・カールマーンの計算)もしくは47回(サバドシュ・ジェルジの計算)もの遠征を行った[23]。そのうち実に8割を超える37回が成功といえる結果を残しており、失敗したのはわずか8回(901年、913年、933年、943年、948年、951年、955年、970年)だった[24]。
マジャル人の遠征年表
[編集]「ハンガリー」征服以前
[編集]- 839年 – カルパチア山脈より東方のエテルケズに住んでいたマジャル人が、第一次ブルガリア帝国の要請を受け下ドナウ東ローマ帝国の反乱軍と戦う[25]。
- 861年 – 聖キュリロスがクリミアで「狼のように叫ぶ」マジャル人に襲われるが、彼が祈っているのを見て平和的になり、事なきを得る[26]。
- 862年 – 最初のカルパチア盆地侵攻。モラヴィア王ラスチスラフの要請を受け、東フランク王国と戦う[26]。
- 870年ごろ – 東方のスラヴ人部族を攻撃し、貢納を強いるとともに多数のスラヴ人を連れ去り、クリミアのケルチにおいて奴隷として東ローマ帝国に売り飛ばす[27]。
- 881年 – モラヴィアに協力し、2度にわたりドイツ人と戦う[26]。
- 882年 – マジャル人の「王」が下ドナウで聖キュリロス・聖メトディオスと会見し、議論を交わす[28]。
- 892年 – 東フランク王アルヌルフと同盟し、モラヴィア王国を攻撃[29]。
- 894年
- 895年 – ブルガリアとペチェネグの挟撃を受け、西方に逃れてカルパチア盆地へ侵入、ドナウ川以東を征服。ブルガリアを南トランシルヴァニアおよびティサーンドゥールで破り、その勢力をカルパチア盆地から駆逐する(マジャル人のカルパチア盆地征服)[32]。
「ハンガリー」征服以降
[編集]- 899年 – イタリア王国に侵攻し、9月23日にブレンタ川の戦いでベレンガーリオ1世を破る。モデナを焼いてヴェネツィアを攻撃した末、ベレンガーリオ1世からの貢納を取り付ける[33]。
- 900年 – 東フランク王国に同盟を申し込んだが拒否されたため、パンノニアを征服。現在のハンガリーにあたる地域の征服完了[34]。
- 901年
- 902年 – モラヴィア王国東部を征服、カルパチア盆地征服の完了。より西方や東方のスラヴ人がマジャル人に貢納するようになる[36]。
- 903年 – バイエルンに侵攻するも、フィシャ川付近で敗北[36]。
- 904年
- 905年
- 906年 – ザクセン人に脅かされていたスラヴ人ダラマンツィ族の求めに応じ、ザクセンを立て続けに攻撃し、これを荒廃させる[37]。
- 907年
- 908年 – テューリンゲンとザクセンを攻撃。8月3日にアイゼナッハの戦いでテューリンゲン公ブルハルトを破る。ブルハルト、エギノ、ヴュルツブルク司教ルドルフ1世らが戦死[40]。
- 909年
- 910年
- 911年 – バイエルンを通過してシュヴァーベンとフランケンを襲撃し、マインフェルトから年までを掠奪する。その後ライン川を渡り、初めてブルゴーニュに到達[42]。
- 912年 – 新たに東フランク王に即位したコンラート1世に貢納を強いるため、フランケンとテューリンゲンを攻撃[42]。
- 913年 – バイエルン、シュヴァーベン、北ブルゴーニュを掠奪するが、イン川の戦いでバイエルン公アルヌルフ、シュヴァーベン公エルハンガー、ウダルリッヒ公、ベルフトルト公の連合軍に敗れる[43]。
- 914年 – コンラート1世に公位を追われたバイエルン公アルヌルフとその家族を受け入れ、彼の復位を支援することを約束[44]。
- 915年 – シュヴァーベンとフランケンを荒廃させる。フルダ修道院の襲撃には失敗したが、コルヴァイ修道院を焼き、ヘルツフェルトの聖イダ修道院を掠奪する。その後ザクセンに入ってファルンを掠奪し、ブレーメンを焼き、エレスブルクでザクセン軍を破り、デンマーク国境まで至る[44]。
- 916 – アルヌルフの公位奪回を支援するためバイエルンに侵攻するが失敗[44]。
- 917
- 919年- 920年
- 921年 - 922年
- 924年
- イタリア及び南フランスでの活動
- ザクセンでの活動
- 926年
- 5月1–8日 – イタリア王となったウーゴの同盟者としてシュヴァーベンに侵攻し、アウクスブルクを包囲[51]、ザンクト・ガレン修道院を占領する。ここを拠点に小規模な部隊が周辺地域を襲撃し、付近の森に隠棲していた聖ヴィボラダが犠牲となる。
- 5月8日以降 – コンスタンツを包囲し、近郊を焼き払ったのち、西方のシャフハウゼンやバーゼルへ向かう。その中の一部隊がライン川の河畔のセッキンゲンで地元民に撃退されるが、他の舞台はライン川を渡り、船を鹵獲してアルザスに侵攻し、アルザス公リウトフレドを破る。その後はライン川を下って北上し、ヴォンク周辺を掠奪する。大西洋に到達した後は、ランスを経由してハンガリーに帰還する。その途中でバイエルンに立ち寄り、アルヌルフとの同盟関係を更新する。
- 7月29日 – オーバーキルヘンを破壊する[52]。
- 927年 – イタリア王ウーゴの求めに応じてローマに侵攻し、教皇ヨハネス10世を打倒。その間にトスカーナやプッリャを掠奪し、オーリアとターラントを占領した.[53]。
- 931年 – ピアチェンツァを焼く[54]。
- 933年
- 934年
- 西欧方面
- メス (フランス)メスとロタリンギアを掠奪[55]。
- バルカン半島方面
- ペチェネグ人との戦争が勃発するが、ブルガリア人がマジャル人の領域を侵すためにW.l.n.d.rという大都市 (おそらくベオグラード)に集結しているという報を受けてペチェネグ人と和平、逆に連合してこの街を攻撃することにする。
- 4月 – マジャル・ペチェネグ連合軍がW.l.n.d.rの戦いでブルガリア・東ローマ連合軍をに大勝したのち、この街を3日にわたり掠奪する。.
- 5月–6月 – ペチェネグ人とともにトラキアを掠奪し大勢の捕虜を捕らえながら南下、コンスタンティノープルの城壁外に40日にわたり居座る。最終的に東ローマ帝国は捕虜の身代金を払い、貢納することを約束して輪を結んだ[56]
- 西欧方面
- 935年 – アキテーヌとブールジュを襲い、ブルゴーニュと北リイタアを経由して帰還する。その間にブレシアを掠奪している[55]。
オットー1世の登場
[編集]- 936年 - 937年
- 936年末 – 新たな東フランク王オットー1世が即位したのに伴い、貢納を強いるためにシュヴァーベンとフランケンをに侵攻、フルダ修道院を焼く。その後ザクセンに侵入するが、オットー1世に撃退され、西方へ針路を変える。
- 937年2月21日 – ロタリンギアに入り、ヴォルムスでライン川を渡り、ナミュールに向かう
- 聖バソルス修道院からヴェルジーに至る地域を占領し、ここを拠点として周辺の修道院を掠奪する。
- 3月24日 – サンスに至り、聖ペテロ修道院を焼く。
- オルレアンでエベス・ド・デオル率いるフランス軍を破る。その後ロワール川に沿ってフランス中部を荒らし、大西洋に至ったのちはブルゴーニュへ向かい、ブールジュ近郊を掠奪する。
- 7月11日以降 – ディジョンからブルゴーニュに入り、ルクソール修道院を掠奪。そこからローヌ川の渓谷に沿って蹂躙しながら南下し、トゥールニュを焼き、聖デイコルス修道院と聖マルケル修道院を占領するが、聖アッポリナリス修道院は奪えなかった。
- 8月 – 東進してロンバルディアに入る。ここでイタリア王ウーゴの要請を受け南イタリアに侵攻し、東ローマ帝国領を荒らす。カプア近郊を掠奪し、ガリアーノの牧草地に本営を置いて、ナポリ、ベネヴェント、サルノ、ノーラ、モンテ・カッシーノに小遠征隊を派遣して掠奪する。特にモンテ・カッシーノを襲った際の戦果が大きく、捕虜の身代金として2000ヒュペルピュロンもの金貨を得た[57]。
- 秋 – ハンガリーへ帰る途中、ある一部隊がアペニン山脈中で地元民の奇襲を受け、戦利品を奪われる[57]。
- 938年
- 7月末 – テューリンゲンとザクセンを攻撃し、ハルツ山地北方のボーデに拠点を置き、各方面に小遠征隊を派遣する。うち一部隊はヴォルフェンビュッテルで東フランク軍に敗れ、指揮官を失った。他のある部隊はスラヴ人案内者の誤りによってドレーミングの沼沢地帯に迷い込み、Belxaでドイツ人の奇襲を受け惨敗する。この部隊の指揮官は捕虜となり、身代金が支払われた。
- 8月31日以降 – 敗報を受けたマジャル人本軍は、ボーデ川の駐屯地からハンガリーへ撤退する[58]。
- 940年4月 – イタリア王ユーグを助けてローマ貴族を破るが、その後ランゴバルド人に敗れる.[58]。
- 942年
- 943年
- バルカン半島方面
- ルーシ人と同盟して東ローマ帝国を攻める。皇帝ロマノス1世レカペノスは金で和平を結び、毎年貢納することを約束した[60]。
- バイエルン方面
- バイエルンに侵攻するも、ヴェルスの戦いでバイエルン公ベルトルトとカランタニア人の連合軍に敗れる[60]。
- バルカン半島方面
- 947年 – タクソニに率いられ、イタリアに侵攻して半島の東岸を南下。ラリーノを包囲し、オトラントまで達し、3か月にわたりプッリャを荒らしまわった[61]。
- 948年 – 2つの部隊に分かれてバイエルンとケルンテンを攻撃するが、ノルドガウのフロッツンでバイエルン公ハインリヒ1世に敗れる[62]。
- 949年8月9日 – ラーでバイエルン軍を破る[62][63]。
- 950年 – バイエルン公ハインリヒ1世がハンガリー西部に侵攻し、捕虜をとり掠奪する[62]。
- 951年
- 春 – ロンバルディアを通過し、アキテーヌを攻撃する。
- 11月20日 – ハンガリーに帰還しようとしたところで、イタリア王国を征服してきたオットー1世の東フランク軍に遭遇し、敗れる[62]。
- 954年
- 2月 – オットー1世の息子のシュヴァーベン大公リウドルフが父親に反乱を起こしたのを受け、リウドルフと同盟。ブルチューに率いられ、オットー1世に味方するバイエルン、シュヴァーベン、フランケンの各地を襲撃する。
- 3月1日 – ライン川を渡り、リウドルフの弟で反乱軍側に立つロタリンギア公コンラートの首都であるヴォルムスに駐屯する。
- 3月19日 – 西方へ進撃し、コンラートの敵のケルン大司教ブルーノとラゲナリウス伯を攻撃する。その後、モーゼル川とマース川を渡る[64][65]。
- エスベイとカルボナリア(ともに現ベルギー)を掠奪、さらにエノーの聖ランベルト修道院を掠奪して焼き、モールセル修道院を掠奪し、ジャンブルー市とトゥルネー市を攻略する。
- 4月2日 – ロッブ修道院を攻撃するが、修道士に撃退される。その後聖パウロ修道院に矛先を変えてこれを焼き、宝物を奪う。
- 4月6–10日 – カンブレーを包囲し、周辺を焼くが、攻略には失敗。攻城戦中にブルチューの親族の一人が戦死。防衛側が彼の遺体の返還を拒んだため、マジャル軍は報復として捕虜を全員処刑し、近くの聖ジェリー修道院を焼く。
- 4月6日以降 – 国境を越えてフランスに侵入し、ラン、ランス、シャロン、メス、ゴルズを焼く。その後、ブルゴーニュと北イタリアを経由してハンガリーに帰還[66]。
- プロヴァンスにおけるムスリムの飛び地フラクシネトゥムを攻撃。両者が争っているところにブルグント王コンラートが不意打ちを仕掛け、両者を破る[67]。
- 955年
- 7月中旬 – バイエルンとザクセンの反乱軍の要請を受け、ブルチュー、レヘル、スル、タクソニといった指揮官たちに率いられドイツに侵攻。バイエルンを掠奪し、シュヴァーベンに入って多くの修道院を焼き払う。
- 8月初旬 – アウクスブルクの包囲を開始。
- 8月10日 – 第二次レヒフェルトの戦いでマジャル人に敗北、アウクスブルクから撤退。ただし東フランク側も、ロタリンギア公コンラート、伯のディートパルト、アールガウ伯ウルリッヒ、バイエルンの伯ベルトルトが戦死するなど多大な損害を受けた[68]。
- 8月10-11日 – 司令官のブルチュー、レヘル、スルが東フランク軍に捕らえられ、他多くの兵が敗走中に討たれる。
- 8月15日 – ブルチュー、レヘル、スルがレーゲンスブルクで絞首される[69]。これをもって、マジャル人の西方遠征は終結する。
最後の南方侵略
[編集]- 957年 – 東ローマ帝国が貢納を停止。
- 959年4-5月 – アポルに率いられ、東ローマ帝国を攻撃。各地を掠奪しながらコンスタンティノープルに至る。しかし帰路で東ローマ軍の夜襲を受け敗北[70]。
- 961年 – トラキアとマケドニアを攻めるが、東ローマ軍の夜襲に敗れる[70]。
- 966年 – 第一次ブルガリア帝国を攻め、ペタル1世に東ローマ帝国までの通過を認めさせる[71]。
- 968年 – 2手に分かれて東ローマ帝国に侵攻。一隊(300人)はテッサロニキ周辺で500人のギリシア人捕虜を獲得してハンガリーに帰還。もう一隊(200人)は東ローマ軍の奇襲を受けて敗れる。40人が捕虜となり、皇帝ニケフォロス2世フォカスの親衛隊とされる[72]。
- 970年 – キエフ大公スヴャトスラフ1世を支援して東ローマ帝国を攻撃するが、アルカディオポリスの戦いで東ローマ軍に敗北[73]マジャル人の侵略の終結。
戦術
[編集]マジャル人軍団のほとんどは軽騎兵で、高い機動性を誇った[74]。彼らは前触れなしに襲い掛かり、地方を迅速に略奪し、敵の反撃が組織される前に撤退した[74]。敵軍との戦闘に持ち込まれた場合は、マジャル人はまず矢を放って敵を威嚇するとすぐさま撤退した。敵がこの誘いに乗って戦列を崩し追撃してきたところで反撃に転じ、敵を壊滅させた[74]。この偽装退却戦術は遊牧民などに広くみられる戦法で、他の時代にもヨーロッパ人はパルティアやモンゴル帝国などの偽装退却戦術に苦しめられている。
その後
[編集]マジャル人は、定住する地を求めて中欧に侵攻した最後の人々だった[74]。955年のレヒフェルトの戦いをもって、90年に及んだマジャル人の西欧侵攻が終結するとともに、彼らの生き残りはカルパチア盆地に落ち着いてハンガリー王国を建国する元となった[75]。これ以降、マジャル人は西欧の封建体制や重騎兵中心の軍制、キリスト教などを受容していった[74]。
脚注
[編集]- ^ Barbara H. Rosenwein, A short history of the Middle Ages, University of Toronto Press, 2009, p. 152 [1]
- ^ Jean-Baptiste Duroselle, Europe: a history of its peoples, Viking, 1990, p. 124 [2]
- ^ a b c Király, Péter. Gondolatok a kalandozásokról M. G. Kellner "Ungarneinfälle..." könyve kapcsán
- ^ a b c d e f Tóth, Sándor László (1998). Levediától a Kárpát-medencéig (From Levedia to the Carpathian Basin). Szeged: Szegedi Középkorász Műhely. ISBN 963-482-175-8
- ^ Kevin Alan Brook, The Jews of Khazaria, Rowman & Littlefield, 2009, p. 142.
- ^ a b c d e Kristó, Gyula (1993). A Kárpát-medence és a magyarság régmultja (1301-ig) (The ancient history of the Carpathian Basin and the Hungarians - till 1301). Szeged: Szegedi Középkorász Műhely. p. 299. ISBN 963-04-2914-4
- ^ a b c d Victor Spinei, Text to be displayedThe Romanians and the Turkic nomads north of the Danube Delta from the tenth to the mid-thirteenth century, BRILL, 2009, p. 69
- ^ a b Csorba, Csaba (1997). Árpád népe (Árpád’s people). Budapest: Kulturtrade. p. 193. ISBN 963-9069-20-5
- ^ Gyula Kristó, Encyclopedia of the Early Hungarian History - 9-14th centuries[3]
- ^ Lajos Gubcsi, Hungary in the Carpathian Basin, MoD Zrínyi Media Ltd, 2011
- ^ a b c d e f g h i j Timothy Reuter, The New Cambridge Medieval History: c. 900-c. 1024, Cambridge University Press, 1995, p. 543, ISBN 978-0-521-36447-8
- ^ Peter Heather, Empires and Barbarians: The Fall of Rome and the Birth of Europe, Pan Macmillan, 2012, p. 369, ISBN 9780199892266
- ^ Reuter, Timothy. Germany in the Early Middle Ages 800–1056. New York: Longman, 1991., p. 129
- ^ a b c Peter F. Sugar, Péter Hanák, A History of Hungary, Indiana University Press, 1994, p. 13
- ^ Rosenwein, Barbara H. "The Family Politics of Berengar I, King of Italy (888–924)." Speculum, Vol. 71, No. 2. (Apr., 1996), p. 266. マジャル人は少なくとも名目的にはベレンガーリオ1世の同盟者として動いていた。
- ^ Rosenwein, Barbara H. "The Family Politics of Berengar I, King of Italy (888–924)." Speculum, Vol. 71, No. 2. (Apr., 1996), p. 266.
- ^ a b Florin Curta, Southeastern Europe in the Middle Ages, 500-1250, Cambridge University Press, 2006, p. 193, ISBN 978-0521815390
- ^ Karl Leyser, Medieval Germany and its neighbours, 900-1250, Continuum International Publishing Group, 1982, p. 50 [4]
- ^ The Magyars of Hungary
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