マリアーンスケー・ラーズニェ
マリアーンスケー・ラーズニェ | |||||
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位置 | |||||
位置 | |||||
座標 : 北緯49度57分52秒 東経12度42分04秒 / 北緯49.96444度 東経12.70111度 | |||||
行政 | |||||
国 | チェコ | ||||
州 | カルロヴィ・ヴァリ州 | ||||
郡 | ヘプ郡 | ||||
マリアーンスケー・ラーズニェ | |||||
市長 | ズデニェク・クラール | ||||
地理 | |||||
面積 | |||||
域 | 51.81 km2 | ||||
標高 | 578 m | ||||
人口 | |||||
人口 | (2008年現在) | ||||
域 | 14,293人 | ||||
その他 | |||||
等時帯 | CET (UTC+1) | ||||
夏時間 | CEST (UTC+2) | ||||
公式ウェブサイト : http://www.marianskelazne.cz |
マリアーンスケー・ラーズニェ(Mariánské Lázně [ˈmarɪjaːnskɛː ˈlaːzɲɛ])は、チェコのカルロヴィ・ヴァリ州の都市。人口は約1万4千人。カルロヴィ・ヴァリなどと並ぶ温泉保養地として有名である。ドイツ語ではマリーエンバート(Marienbad)で、国際的にはこの名称でよく知られる[1]。
地勢・産業
[編集]ドイツからチェコにかけて広がる「ボヘミアの森」の中に位置する。海抜は約650メートルほど。カルロヴィ・ヴァリ、フランチシュコヴィ・ラーズニェと並ぶチェコ有数の温泉地である。この3つの温泉地が三角形を描くように位置しているため、あわせて「ボヘミアの温泉三角地帯」とも称され、多くの湯治客を集める。近隣の都市としては、約30キロメートル北東のカルロヴィ・ヴァリ、25キロメートル北西のヘプなどが挙げられる。15キロメートルほど西がドイツ国境。
歴史
[編集]16世紀前半、近隣のテプラー修道院の僧によって温泉が発見された。18世紀後半より療養目的で温泉が用いられはじめ、19世紀初頭に療養施設が成立した。鉄道網の発展などに伴い、多くの人物が訪れるようになった。19世紀半ばから20世紀初頭にかけて豪壮華麗な保養所が多く建設され、現在に至るまでホテルや一般の住居として用いられている。
温泉
[編集]呼吸器、泌尿器、肝臓疾患などに効用があるとされる。泉質は鉄、アルカリ塩などを多く含む。飲泉は、コロナーダと称される社交所を兼ねた施設で行われることが多い。
温泉を訪れた著名人
[編集]- ヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテ(1749年 - 1832年)
- ドイツ最大の作家の一人。その生涯の晩年にあっても情熱家であったゲーテは、「マリーエン・バートの哀歌」という詩の中で、19歳の娘への恋心をつづっている。同都市の郷土博物館の2階には、長くゲーテが滞在していた部屋が残されており、現在でも多くの観光客を集めている。
- フレデリック・ショパン(1810年 - 1849年)
- 19世紀ポーランドの作曲家。フラヴニ通りには、彼の滞在していた家がショパン記念館として残されている。恋人ともこの地に訪れていた。
- フランツ・カフカ(1883年 - 1924年)
- 『変身』『審判』などの作品で知られる作家。病弱であった彼はこの街で湯治を行ったが、暴飲暴食がたたりプラハに戻ったというエピソードがある。
- ヨハン・シュトラウス2世(1825年 - 1899年)
- コロナーダの近くにある「歌う噴水」で、彼の曲がよく流される。
- エドワード7世(1841年 - 1910年)
- ノヴェー・ラーズニェの個室風呂には、彼が好んで利用した風呂が残されている。
その他、シュテファン・ツヴァイク、フリードリヒ・ニーチェ、リヒャルト・ワーグナー、マクシム・ゴーリキー、マーク・トウェインなど多くの人物がマリャーンスケー・ラーズニェを訪れた。外国君主では、イギリスのエドワード7世のほかでもロシアのニコライ2世などが同都市に立ち寄っている。
交通
[編集]プラハから特急列車で3時間強。カルロヴィ・ヴァリから2時間弱でマリアーンスケー・ラーズニェに到着する。
有名な出身者
[編集]- ペーター・ホフマン - テノール歌手
姉妹都市
[編集]脚注
[編集]- ^ 『地球の歩き方 2017〜18 チェコ/ポーランド/スロヴァキア』ダイヤモンド・ビッグ社、2017年、141頁。ISBN 978-4-478-06043-8。
関連項目
[編集]- ヨーロッパの大温泉保養都市群
- 去年マリエンバートで - 1961年公開のフランス・イタリア合作映画
- マリエンバード - 同名の競走馬