マリア・アントニア・フォン・エスターライヒ=トスカーナ
マリア・アントニア・フォン・エスターライヒ=トスカーナ Maria Antonia von Österreich-Toskana | |
---|---|
出生 |
1899年7月13日 オーストリア=ハンガリー帝国、アグラム |
死去 |
1977年10月22日(78歳没) ブラジル、ポルト・アレグレ |
配偶者 | ラモン・オルランディス・イ・ビジャロンガ |
ルイス・ペレス・スクレ | |
子女 | フアン・オルランディス・イ・アブスブルゴ 他 |
父親 | レオポルト・ザルヴァトール大公 |
母親 | ブランカ・デ・ボルボーン |
マリア・アントニア・フォン・エスターライヒ=トスカーナ(Maria Antonia Erzherzogin von Österreich-Toskana, 1899年7月13日 - 1977年10月22日)は、オーストリア帝室の分枝ハプスブルク=トスカーナ家出身の大公女(Erzherzogin)。トスカーナ大公レオポルド2世の曾孫。
生涯
[編集]レオポルト・ザルヴァトール大公と、その妻でスペインのカルリスタ王位請求者であるマドリード公カルロス・マリアの娘ブランカの間の第6子、四女として生まれた。全名はマリア・アントニア・ローベルタ・ブランカ・レオポルディーナ・カローレ・ヨーゼファ・ラファエラ・ミヒャエラ・イグナティア・アウレリア(Maria Antonia Roberta Blanka Leopoldina Karole Josepha Raphaela Michaela Ignatia Aurelia)である。家族からはミミ(Mimi)の愛称で呼ばれた。両親はウィーンにパレ・トスカーナとヴィルヘルミーネンベルク城の2つの城館を所有し、後者の城だけで80人以上の使用人を抱えるなど[1]、裕福な資産家だった。9人の兄弟姉妹がいたが、すぐ下の妹アスンタと一緒に育てられた。1918/1919年の二重帝国と君主制の崩壊に伴い、大公一家は皇族の身分と全財産を失った[2]。(2人の年長の兄を除く)大公一家全員はオーストリア共和国市民に登録するのを拒み、1919年1月にスペインのバルセロナに亡命[3]、以前に較べると貧しい生活を送った。
年の離れた3人の姉ドローレス、マリア・インマクラータ、マルガレータが両親に従順だったのに対し、マリア・アントニアとアスンタの年若い2人の姉妹は反抗的で、頻繁に母ブランカ大公妃と衝突した。2人姉妹は徐々に宗教生活に傾倒していった[4]。両親は共に信心深いカトリック信徒ではあったものの、下の娘たちの信仰生活への情熱に不安を感じていた。母大公妃はマリア・アントニアの修道院に入りたいという願望を理解せず、彼女の宗教的な情熱が妹アスンタに影響を与えることを嫌った。両親はマリア・アントニアの決心を翻すきっかけになればと、マヨルカ島への旅行に娘を伴った。これは父大公の叔父でマヨルカ島に隠棲したルートヴィヒ・ザルヴァトール大公が残した資産の相続請求のための旅行だったが、両親は叔父の遺産を得ることは出来なかった。しかしマリア・アントニアはこの島で出会った男性と恋に落ち、修道女になる決心を捨ててしまった。相手は貧窮した下級貴族の息子ラモン・オルランディス・イ・ビジャロンガ(1896年 - 1936年)で、彼の父親は貴族の資産税を支払うことが出来ず、爵位を剥奪されていた。2人の婚礼は1924年6月16日にバルセロナで挙げられた。夫妻はマヨルカ島で暮らし、1男4女の5人の子女をもうけた。長男フアン・オルランディス・イ・アブスブルゴ(1928年 - 1977年)は、1963年にピノパール男爵に叙せられている。
1936年にラモンと死別すると、スペイン内戦を避けて南米に移住した。1942年、モンテビデオでアルゼンチン人ルイス・ペレス・スクレ(1899年 - 1957年)と再婚した。
引用
[編集]参考文献
[編集]- Harding, Bertita. Lost Waltz: A Story of Exile. Bobbs-Merrill, 1944. ASIN: B0007DXCLY
- McIntosh, David. The Unknown Habsburgs. Rosvall Royal Books, 2000. ISBN 91-973978-0-6