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マリア・デ・ラス・メルセデス・デ・ボルボーン・イ・アブスブルゴ=ロレナ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
マリア・デ・ラス・メルセデス
María de las Mercedes
ボルボン家

称号 アストゥリアス女公
出生 (1880-09-14) 1880年9月14日
スペインの旗 スペイン王国マドリード王宮
死去 (1904-10-17) 1904年10月17日(24歳没)
スペインの旗 スペイン王国マドリード王宮
埋葬 スペインの旗 スペイン王国エル・エスコリアル修道院
配偶者 カルロ・タンクレーディ・ディ・ボルボーネ=ドゥエ・シチリエ
子女 アルフォンソ・マリア
フェルナンド
イサベル・アルフォンサ
父親 アルフォンソ12世
母親 マリア・クリスティーナ・デ・アブスブルゴ=ロレナ
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マリア・デ・ラス・メルセデス・デ・ボルボン・イ・アブスブルゴ=ロレナスペイン語: María de las Mercedes de Borbón y Habsburgo-Lorena, 1880年9月14日 - 1904年10月17日)は、スペインの王女(インファンタ)、アストゥリアス女公

生涯

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マリア・デ・ラス・メルセデスと両親(1880年撮影)

スペイン王アルフォンソ12世と王妃マリア・クリスティーナの長女としてマドリード王宮で誕生し、生まれてすぐ王位継承第1位の者に与えられるアストゥリアス公の称号を授けられた。名前は、父の最初の王妃でわずか18歳で急逝したマリア・デ・ラス・メルセデス・デ・オルレアンスにちなむ。全名はマリア・デ・ラス・メルセデス・イサベル・テレサ・クリスティーナ・アルフォンサ・ハシンタ・アナ・ホセファ・フランシスカ・カロリーナ・フェルナンダ・フィロメナ・マリア・デ・トードス・ロス・サントス(María de las Mercedes Isabel Teresa Cristina Alfonsa Jacinta Ana Josefa Francisca Carolina Fernanda Filomena María de Todos los Santos)。

1885年11月、母マリア・クリスティーナが第3子を懐妊中に父アルフォンソ12世が肺結核で急死した。当時マリア・デ・ラス・メルセデスは5歳だった。王位は空位とされ、翌年5月に生まれた男児が誕生後ただちにアルフォンソ13世として即位したが、マリア・デ・ラス・メルセデスはアストゥリアス公のままであった(アルフォンソ13世に当然ながら子がなく、王位継承第1位であったため)。

1901年両シチリア王家出身のカルロ・タンクレーディ・ディ・ボルボーネ=ドゥエ・シチリエ(最後の国王フランチェスコ2世の甥)と結婚した。2人は3子をもうけた。

1904年、末子イサベル・アルフォンサを出産後に急死した。アルフォンソ13世はまだ独身であったため、1907年にアルフォンソ13世の長男アルフォンソが誕生するまでマリア・デ・ラス・メルセデスの長男アルフォンソ・マリアをアストゥリアス公とした。

なお、夫カルロ・タンクレーディは、2度目の妻ルイーズ・ドルレアンとの間の次女にマリア・デ・ラス・メルセデスの名を付けている(スペインの前国王フアン・カルロス1世の母である)。

子女

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関連項目

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ウィキメディア・コモンズには、マリア・デ・ラス・メルセデス・デ・ボルボン・イ・アブスブルゴ=ロレナに関するカテゴリがあります。

先代
イサベル・フランシスカ
アストゥリアス女公
1880年 - 1904年
次代
アルフォンソ・マリア