マリア・ヨーゼファ・フォン・リヒテンシュタイン
表示
マリア・ヨーゼファ・フォン・リヒテンシュタイン Maria Josepha von Liechtenstein | |
---|---|
エステルハージ・デ・ガランタ侯爵夫人マリア・ヨーゼファ・ヘルメンギルデ、エリザベート・ヴィジェ=ルブラン画、1793年 | |
出生 |
1768年4月13日 神聖ローマ帝国 オーストリア大公国、ウィーン |
死去 |
1845年8月8日(77歳没) ヒュッテルドルフ |
配偶者 | エステルハージ・デ・ガランタ侯ニコラウス(2世) |
子女 |
パウル(3世)・アントン マリア・レオポルディーナ |
家名 | リヒテンシュタイン家 |
父親 | リヒテンシュタイン侯フランツ・ヨーゼフ1世 |
母親 | レオポルディーネ・フォン・シュテルンベルク |
マリア・ヨーゼファ・ヘルメンギルデ・フォン・ウント・ツー・リヒテンシュタイン(Maria Josepha Hermengilde von und zu Liechtenstein, 1768年4月13日 - 1845年8月8日)は、リヒテンシュタイン家の侯女で、ハンガリー貴族のエステルハージ・デ・ガランタ侯ニコラウス(2世)の妻。
生涯
[編集]リヒテンシュタイン侯フランツ・ヨーゼフ1世とその妻レオポルディーネ・フォン・シュテルンベルクの間の末娘として生まれた。1783年9月15日にウィーンにおいて、エステルハージ家の嗣子であるニコラウス(2世)と結婚した。夫は1809年のヴァグラムの戦いの直後、フランス皇帝ナポレオン1世からハンガリー王位に就くよう打診されたが、ハプスブルク家に対する忠誠を守ってこの申し出を拒否した。
マリア・ヨーゼファ・ヘルメンギルデは夫とともに文芸の庇護者として知られ、特に作曲家フランツ・ヨーゼフ・ハイドンのパトロンとして有名だった。侯妃は1796年から1802年にかけての6年間、ハイドンに自分の聖名祝日(9月8日の聖母誕生祭)のためのミサ曲を毎年1曲ずつ作らせた。『戦時のミサ』(1796年)、『オフィダの聖ベルナルドの讃美のミサ』(ハイリッヒ・ミサ 1796年)、ネルソン・ミサ(1797年)、テレジア・ミサ(1798年)、天地創造ミサ(1801年)、ハルモニー・ミサ(1802年)の6曲である。
子女
[編集]- パウル(3世)・アントン(1786年 - 1866年) - エステルハージ・デ・ガランタ侯
- マリア・レオポルディーナ(1788年 - 1846年) - 1806年、リヒテンシュタイン侯子モーリッツ(Moritz von Liechtenstein)と結婚