マリー・カロリーヌ・ド・ブルボン=シシレ (1822-1869)
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マリー・カロリーヌ Marie-Caroline | |
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ブルボン=シチリア家 | |
フランツ・ヴィンターハルター画、1848年 | |
全名 |
Marie-Caroline Auguste マリー・カロリーヌ・オギュスト |
出生 |
1822年4月26日 オーストリア帝国、ウィーン |
死去 |
1869年12月6日(47歳没) イギリス イングランド、トゥイッケナム |
埋葬 | フランス帝国、ドルー、サン=ルイ王室礼拝堂 |
配偶者 | アンリ・ドルレアン |
家名 | ブルボン=シチリア家 |
父親 | レオポルド・ディ・ボルボーネ=ナポリ |
母親 | マリーア・クレメンティーナ・ダズブルゴ=ロレーナ |
マリー・カロリーヌ・オギュスト・ド・ブルボン=シシレ(フランス語:Marie-Caroline Auguste de Bourbon-Siciles、1822年4月26日 - 1869年12月6日)は、7月王政期(オルレアン家)のフランス王子・オマール公アンリの妻。両シチリア王女(Principessa delle Due Sicilie)。
イタリア語名マリーア・カロリーナ・ディ・ボルボーネ=ドゥエ・シチリエ(Maria Carolina di Borbone-Due Sicilie)。
生涯
[編集]初代両シチリア王フェルディナンド1世の6男であるサレルノ公レオポルドと、オーストリア皇帝フランツ1世の娘のマリーア・クレメンティーナの娘として、オーストリア帝国のウィーンで生まれた。母方の伯母にはナポレオンの妃となったマリーア・ルイーザがいる。
1844年11月、7月王政期のフランス王ルイ=フィリップの5男のオマール公アンリと両シチリアの首都のナポリで結婚した。4子をもうけたが、いずれも夭折または独身のまま若くして死んだ。1869年、亡命先のイギリス、トゥイッケナムで肺結核のため死去し、フランス北部のドルーにあるオルレアン家の人々が多く眠る墓所に葬られた。夫婦仲が良かったとされ、アンリはその後再婚せず、独身を通した。
家族
[編集]アンリとの間に4子をもうけた。
- ルイ・フィリップ(1845年 - 1866年) - コンデ公
- アンリ・レオポール(1847年) - ギーズ公
- フランソワ・ポール(1852年) - ギーズ公
- フランソワ・ルイ(1854年 - 1872年) - ギーズ公
外部リンク
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