マリー=アンヌ・ド・ブルボン (1678-1718)
表示
マリー=アンヌ・ド・ブルボン Marie-Anne de Bourbon | |
---|---|
ウー城に残るマリー・アンヌの肖像画の複製、19世紀、イポリット・フランドランの手になる | |
出生 |
1678年2月24日 フランス王国、パリ、オテル・ド・コンデ |
死去 |
1718年4月11日(40歳没) フランス王国、パリ、オテル・ド・ヴァンドーム |
埋葬 | フランス王国、パリ、カルメル会修道院 |
配偶者 | ヴァンドーム公ルイ・ジョゼフ・ド・ブルボン |
家名 | ブルボン=コンデ家 |
父親 | コンデ公アンリ・ジュール |
母親 | アンヌ・ド・バヴィエール |
マリー=アンヌ・ド・ブルボン(Marie-Anne de Bourbon, 1678年2月24日 オテル・ド・コンデ - 1718年4月11日[1] オテル・ド・ヴァンドーム)は、ブルボン朝時代フランスの傍系王族(血統親王、プランセス・デュ・サン)の1人。結婚によりヴァンドーム公爵夫人、エタンプ公爵夫人、ドルー伯爵夫人。
生涯
[編集]コンデ公アンリ・ジュールとその妻アンヌ・ド・バヴィエールの間の第9子・末娘。宮中ではモンモランシー姫(Mademoiselle de Montmorency)と称した。30歳を過ぎてから姉メーヌ公爵夫人の仲介で遠縁のヴァンドーム公ルイ・ジョゼフと結婚。婚礼は1710年5月21日、メーヌ夫人の邸宅ソー城付属礼拝堂で執り行われた。
夫は婚礼の2日後に妻をソー城に置いたままアネ城で引退生活を始め、2年後に妻に豊かな遺産を残して死んだ。マリー=アンヌは1714年より居館オテル・ド・ヴァンドームの拡張・改装を開始した。1718年に40歳で死去、遺骸はパリ・サン=ジャック大通りのカルメル会修道院に埋葬された[2]。遺産は姪のコンティ公妃が相続した。
引用・脚注
[編集]- ^ [1] Archived 2011-07-19 at the Wayback Machine.
- ^ Profile Archived 2019-03-07 at the Wayback Machine., royaltyguide.nl; accessed 17 April 2014.