マルクス・ティティニウス・クルウス
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マルクス・ティティニウス・クルウス M. Titinius Curvus[1] | |
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出生 | 不明 |
死没 | 不明 |
出身階級 | プレプス |
氏族 | ティティニウス氏族 |
官職 |
護民官(紀元前192年) プラエトル(ヒスパニア・キテリオル)(紀元前178年) プロコンスル(紀元前176年-175年) |
マルクス・ティティニウス・クルウス(ラテン語: Marcus Titinius Curvus)は共和政ローマのプレプス(平民)出身の政務官。ヒスパニアに関わったが、後に民衆に告発され訴追された。
経歴
[編集]凱旋式のファスティによれば、父のプラエノーメン(第一名、個人名)はマルクスである[2]。
紀元前192年、護民官として、ルキウス・コルネリウス・メルラの凱旋式を拒否した[3]。
紀元前178年に法務官(プラエトル)に就任し、ヒスパニア・キテリオルを担当した[1]。翌紀元前177年[4]、そしてプロコンスルとして紀元前176年も継続してインペリウムを保持し[5]、紀元前175年にはヒスパニアでの勝利を認められ、ローマ市で凱旋式を実施している[2]
紀元前171年、ヒスパニアの民から搾取を訴えられ、大カト、プブリウス・コルネリウス・スキピオ・ナシカ、ルキウス・アエミリウス・パウルス・マケドニクス、ガイウス・スルピキウス・ガッルス (紀元前166年の執政官)に訴追されたが無罪となった[6]。
脚注
[編集]参考資料
[編集]- ティトゥス・リウィウス『ローマ建国史』
- 凱旋式のファスティ
- T. R. S. Broughton (1951). The Magistrates of the Roman Republic Vol.1. American Philological Association