マルクス・ポンポニウス・マト
マルクス・ポンポニウス・マト M. Pomponius M'.f. M'.n. Matho | |
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出生 | 不明 |
死没 | 紀元前204年 |
出身階級 | プレプス |
氏族 | ポンポニウス氏族 |
官職 |
執政官(紀元前231年) 法務官(紀元前217年、紀元前216年) 騎兵長官(紀元前217年) 前法務官(紀元前215年、紀元前214年) 鳥占官(- 紀元前204年) |
マルクス・ポンポニウス・マト(ラテン語: Marcus Pomponius Matho、- 紀元前204年?)は、紀元前3世紀中期から後期の共和政ローマの政務官。紀元前231年に執政官(コンスル)を務めた。
出自
[編集]プレプス(平民)であるポンポニウス氏族の出身。父も祖父もプラエノーメン(第一名、個人名)はマニウスである、マトと紀元前233年の執政官マニウス・ポンポニウス・マトは兄弟である。二人のどちらか、おそらくはマルクスがアエディリス・プレビス(平民按察官)のマルクス・ポンポニウス・マトの父である。
経歴
[編集]紀元前231年、マトは執政官に就任、同僚執政官はガイウス・パピリウス・マソであった[1]。この年、サルディニアがローマに反乱したがマトに鎮圧されている[2]。
紀元前217年、外国人担当法務官(プラエトル・ペレグリヌス)に就任した[3]。既に第二次ポエニ戦争が始まっていたが、トラシメヌス湖畔の戦いの不明瞭な報告がローマに届くと、マトは市民に向かって「我々は大敗北を喫した」とのみ告げ、詳細は語らなかった[4]。
同年、ルキウス・ウェトゥリウス・ピロ (紀元前220年の執政官)が独裁官(ディクタトル)に就任すると、マトを騎兵長官(マギステル・エクィトゥム)に指名して選挙を管理したが、選出に瑕疵があったとして辞任している[3]。
紀元前216年、再び法務官に選出された[5]。奇妙なことだが、戦争中にはローマ市不在でも選出されることがあり、この時期のカピトリヌスのファスティに破損などから、両年の法務官や騎兵長官が同一人物かどうか判別するのは困難で、テオドール・モムゼンらは、前217年の騎兵長官が再選されたのだろうとみている[6]。カンナエの戦いでの敗報が届くと、マトと同僚法務官のプブリウス・フリウス・ピルスは元老院を召集し、ローマ市防衛について議論させた[7]。
紀元前215年、マトは前法務官(プロプラエトル)としてインペリウム(軍事指揮権)を保持し、ガリア・キサルピナでの作戦を担当した。翌紀元前214年も前法務官の任期が延長された。但し、この年にはマトはカンパニアで活動している[8]。任期が完了すると、マトは自分の隷下の軍をプブリウス・センプロニウス・トゥディタヌスに引き渡した[9]。
ティトゥス・リウィウスは、紀元前211年に神祇官(ポンティフェクス)のマルクス・ポンポニウス・マトが死去したと記録しているが[10]、おそらくマニウスのことである[11]。また紀元前204年には、鳥占官(アウグル)と十人委員会の一人であったマルクス・ポンポニウス・マトが死去したとされている[12]。おそらくこちらがマルクスで、鳥卜官にはティベリウス・センプロニウス・グラックス・マイヨルが選出された[13]。
脚注
[編集]参考資料
[編集]- ゾナラス『歴史梗概』
- ティトゥス・リウィウス『ローマ建国史』
- T. R. S. Broughton (1951). The Magistrates of the Roman Republic Vol.1. American Philological Association
関連項目
[編集]公職 | ||
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先代 マルクス・アエミリウス・レピドゥス マルクス・プブリキウス・マッレオルス |
執政官 同僚:ガイウス・パピリウス・マソ 紀元前231年 |
次代 マルクス・アエミリウス・バルブラ マルクス・ユニウス・ペラ |