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マレーヤ (戦艦)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
マレーヤから転送)
艦歴
発注 1913年
起工 1913年10月20日
進水 1915年3月18日
就役 1916年2月1日
退役 1944年
その後 スクラップとして廃棄
除籍 1948年4月12日
性能諸元
排水量 31,465t(基準)
32.980t(基準:1945年)
35,380t(満載)
37,710t(満載:1945年)
全長 645 ft 9 in (195.3 m)
全幅 90 ft 6 in (27.6 m)
吃水 29 ft 10 in (9.1 m)
機関 バブコック・アンド・ウィルコックス式重油専焼缶24基
パーソンズ式直結型タービン(低速・高速)2組4軸推進
75,000 hp
最大速 25ノット
航続距離 4,400海里
乗員 1,124 - 1,300名
兵装 竣工時:
38.1cm42口径MkI連装砲 4基
15.2cm45口径MkII単装砲 12基
10.2cm45口径MkXVI連装高角砲 4基
2ポンド8連装ポンポン砲 2基
12.7㎜4連装機銃 4基
カタパルト 1基
水偵 3機

~1945年:
38.1cm42口径MkI連装砲 4基
10.2cm45口径MkXVI連装高角砲 6基
2ポンド8連装ポンポン砲 4基
20㎜単装機銃 45基
航空兵装なし
レーダー 竣工時:
無し

~1944年:
277sq型 1基
281b型 2基
284型 1基
285型 2基

マレーヤ (英語: HMS Malaya) は、イギリス海軍戦艦[1]クイーン・エリザベス級戦艦の5番艦[注釈 1]。 艦名は当時の英国領マレー連合州に因む[3][注釈 2]日本語では[4]マラヤと表記する場合もある[5][6][7][注釈 3]。連合州の政府は本艦の建造費を負担した。

艦歴

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第一次世界大戦

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マレーヤは1913年(大正2年)10月20日にアームストロング・ホイットワース社で起工し、1916年(大正5年)2月1日に就役した。第一次世界大戦ではヒュー・エヴァン=トーマス卿の率いる第5戦艦戦隊 (5th Battle Squadron) に加わる[3]。第5戦艦戦隊はQ.E級戦艦5隻を揃え、当時の最強部隊であった[9]。同年5月31日、第5戦艦戦隊(旗艦バーラム)はユトランド沖海戦に参加[10]高速戦艦として扱われていたQ.E級戦艦の第5戦艦戦隊は、グランドフリートにおいてビーティー提督が率いる巡洋戦艦艦隊英語版の隷下で行動する(ユトランド沖海戦、戦闘序列)。ドイツ帝国海軍 (Kaiserliche Marine) との交戦では[11]、マレーヤは主砲215発を発射、ドイツ艦隊より7発[12](もしくは8発)を被弾し、戦死者60名以上を出した[11]

海軍休日

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1922年(大正11年)にマレーヤはオスマン帝国最後の皇帝メフメト6世マルタへ運んだ。 1927年(昭和2年)9月から1929年(昭和4年)3月まで、バルジの追加、射撃式装置の更新などの大規模改装を受ける[11]海軍休日時代大英帝国におけるQ.E級戦艦やネルソン級戦艦は、本国艦隊地中海艦隊主力艦として海上勢力の根幹を成した[8][注釈 4]

1934年(昭和9年)から1936年(昭和11年)まで、水平防御の強化や、航空兵装、対空兵器の強化が図られた[14][注釈 5]。ただし本艦の改造は大改装艦3隻(ウォースパイト、クイーンエリザベス、ヴァリアント)ほど、徹底したものではない[16]。主砲の最大仰角が引き上げられず、改造を受けた姉妹艦より主砲の射程に劣っていた[17]。 折しもイタリア王国エチオピア帝国の関係悪化から地中海の情勢が緊迫化し、さらに第二次エチオピア戦争が勃発する[注釈 5]。イギリスは経済制裁をおこなうと共に本国艦隊を地中海に派遣、ムッソリーニ首相が率いるイタリアとの間で緊張が高まった。

第二次世界大戦

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マレーヤの主砲

1939年(昭和14年)9月以降、第二次世界大戦が始まる。大戦勃発時はジェフリー・レイトン提督が指揮する第1戦艦戦隊(ウォースパイト、バーラム、マレーヤ)としてアレクサンドリアを拠点に行動した[注釈 6]

10月中旬には空母グローリアスなど共にインド洋へ派遣される。 11月になると、ドイツ海軍 (Kriegsmarine) が大西洋に放ったドイッチュラント級装甲艦アドミラル・グラーフ・シュペー[20]アフリカ大陸南端を東進してマダガスカル南方海域まで進出した[21][22]。ポケット戦艦の捜索と掃討のため海軍本部は10月に複数の任務部隊を編成していたが[23]、11月中旬に改めて編成替をおこなった[24]。空母グローリアスと戦艦2隻(マレーヤ、ラミリーズ)で「J部隊」 (Force J) が編成され、アデン湾方面の警戒をおこなっている[25]。シュペーが12月中旬のラプラタ沖海戦で自沈すると[26]、本艦は大西洋での船団護衛任務に就いた。

1940年(昭和15年)6月10日、イタリア王国枢軸陣営として連合国宣戦を布告し、地中海戦線が形成された(地中海攻防戦)。イギリス海軍はアレクサンドリアを拠点とする地中海艦隊と、ジブラルタルを拠点とするH部隊イタリア王立海軍 (Regia Marina) に対抗する[27]。 6月下旬にフランスが枢軸陣営に事実上降伏した時、地中海艦隊は戦艦4隻(ウォースパイト、マレーヤ、ロイヤル・サブリンラミリーズ)と空母イーグルを保有していた[28]。この戦力でイタリア王立海軍新型戦艦や大改造戦艦に対抗できるはずだったが、完全に近代化改装を終えていたのはウォースパイトのみであり、カニンガム提督の懸念材料となった[28]

同年7月9日、カラブリア沖海戦に参加した[17]英連邦諸国で構成された地中海艦隊は、トーヴィー提督の巡洋艦部隊(A部隊)、カニンガム提督(旗艦ウォースパイト)直率のB部隊、ウィッペル提督のC部隊(戦艦マレーヤ、ロイヤルサブリン、空母イーグル、駆逐艦11隻)に分れて行動する[29]。A部隊やウォースパイトが大改造イタリア戦艦2隻[30]ジュリオ・チェザーレコンテ・ディ・カブール)やイタリア巡洋艦部隊などと交戦する一方、本艦と戦艦ロイヤル・サブリンは後落して戦局に寄与しなかった[17]。C部隊の戦艦2隻が追いつけるように、ウォースパイトは戦闘中に円を描くように回頭することを強いられた[31]。マレーヤは姉妹艦においついて、撤退するイタリア戦艦に15インチ主砲で五回の斉射をしたが、2,700メートル手前に落ちて命中しなかった[32]

8月になると北アフリカリビアに駐留するイタリア王立陸軍 (Regio Esercito) がエジプト侵攻の兆候を示したので、地中海艦隊が艦砲射撃をおこなって敵軍を牽制する[33]。8月17日、ウォースパイトと英重巡ケントフォート・カプッツォ英語版イタリア語版を砲撃し、マレーヤとラミリーズがバルディア英語版を砲撃した[34]。その後、マルタ島へ向かう補給船団の護衛に出動し、イタリア艦隊とにらみ合った[35]

9月になると地中海艦隊にQ.E級戦艦2隻(ヴァリアントバーラム)と新鋭空母イラストリアスが増強され(ハッツ作戦)、さらに11月中旬のタラント空襲でイタリア艦隊の脅威が減少した[36]。イギリス海軍は、最前線の地中海艦隊から旧式戦艦2隻(ラミリーズ、マレーヤ)を下げることにした。

1941年(昭和16年)1月からはジブラルタルを拠点とするH部隊に所属し、イタリア本土のジェノヴァ砲撃任務に参加した(グロッグ作戦)。 3月初頭、マレーヤはジブラルタルからイギリスに向かうSL-67船団の護衛に就いた[37]西アフリカ沖合の大西洋を航海中の3月7日、ヴェルデ岬諸島沖合において、通商破壊作戦(ベルリン作戦[38]実施中のドイツ高速戦艦巡洋戦艦)と遭遇した[39]ギュンター・リュッチェンス中将が指揮するシャルンホルスト級戦艦2隻である[40]。15インチ砲8門を装備したマレーヤが存在するため、リュッチェンス提督(旗艦グナイゼナウ)は連合軍船団への攻撃を断念した[39]。マレーヤの無言の勝利である[41]。ただしリュッチェンス提督は味方にSL-67船団の位置を通報しており、Uボート2隻がSL-67船団を襲って輸送船5隻を沈めている[注釈 7]8日の日没時、グナイゼナウ達は改めてSL-67船団に接近したが、マレーヤの存在を見て襲撃を諦めた[42]。マレーヤのウォルラス飛行艇は戦艦シャルンホルストを発見したが、逃走するドイツ艦を捕捉できなかった[42]

3月20日23:23、マレーヤはドイツ潜水艦U-106からの攻撃を受け、損傷した[43]U-106カーボベルデ西北西250マイルの海域でSL-68船団に対して暗闇の中で2本の魚雷を発射した。1本がマレーヤの左舷に命中し、もう1本はマーカークに命中した。浸水被害により約7度傾斜したが、マレーヤは無事にトリニダードに到着した[43]。応急修理の後マレーヤは中立国アメリカ合衆国東海岸に向かう。4月6日にニューヨーク港に到着した時点で、ニューヨーク海軍工廠では新鋭戦艦ノースカロライナ」の就役が間近に迫っていた[注釈 8]。マレーヤは同工廠で約4ヶ月間ドック入りした。

7月9日、カスバート・コッピナー艦長の指揮下公試のためニューヨークを出航し、ノバスコシア州ハリファックスに向かう。同地で船団護衛任務に着任する。マレーヤの1941年7月21日の日誌では「イギリス向けの物資と乗客を乗艦させる。乗客はR・H・デューイング少将、W・E・H・グライレス少将、15から19名の軽騎兵およびアメリカ市民のチェリー氏を含む。」と記録されている。アレックス・H・チェリーはアメリカ合衆国が第二次世界大戦に参戦する前にイギリス海軍へ志願したウォールストリートの銀行員であった。彼の著書『Yankee R.N.』は友人のジョン・パーカー中尉(1941年に戦死した初のアメリカ軍人)に捧げられた。マレーヤは7月28日にロサイスに到着した。イギリスに戻ってからも、マレーヤは対空兵装の強化を受けた[43]

その後、マレーヤはH部隊に配備されて同部隊の旗艦となったが、指揮官のジェームズ・サマヴィル提督からは不評だった[43]。だが当時のイギリス海軍に余力はなく、H部隊の主力艦として枢軸軍に包囲された英領マルタへの戦闘機輸送作戦強行輸送作戦に従事した。1941年11月のパーペテュアル作戦では、14日にH部隊の歴戦艦であった空母アーク・ロイヤルU-81に撃沈されている[注釈 9]。1942年6月、ハープーン作戦にH部隊旗艦として参加した。

1943年(昭和18年)の夏まで修理や改装工事期間を挟みつつ、イギリスからマルタ及びケープタウンへの船団護衛任務に従事した。 1943年7月には、ハスキー作戦の陽動としてノルウェー沖合に展開し[47]、空母フューリアス、アメリカ海軍のサウスダコタ級戦艦2隻と行動を共にした[43][注釈 10]。同年9月からは予備艦となり、乗組員は姉妹艦ヴァリアントに配置転換された[43]。この間、6インチ副砲の撤去、対空火器の増強、誘導グライダー爆弾に対するジャミング装置の改修を受けた[50]

1944年(昭和19年)5月中旬、マレーヤはストリベレン湖新型爆弾“ハイボール”の標的艦となった。乗組員が配属されたままのマレーヤに反跳爆撃が実施され、何発かが命中した。その年の後半にマレーヤは予備役入りし、1948年(昭和23年)2月20日にメタル・インダストリーズ社に売却され、同年4月12日にファスレーンに到着、スクラップとして廃棄された。マレーヤの船内時鐘はロンドンのイースト・インディア・クラブに展示されている。

マレーヤは、第二次世界大戦に参加したクイーン・エリザベス級戦艦の中で唯一大規模な損害を受けず[注釈 11]、退役して解体された[50]

創作作品への影響

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出典

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注釈

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  1. ^ 戰艦“ヴアリアント Valiant[2] 全要目{排水量31,100噸 速力25節 備砲38糎砲8門 15糎砲12門 魚雷發射管2門(水中53糎) 起工1913年1月 竣工1916年2月 建造所フヱヤー・フヰルド造船所} 同型艦“クヰン・エリザベス Queen Elisabeth” “ウオースパイト watspite” 以上の同型艦に“バーハム Barham” “マラヤ Malaya”の2隻計5隻は英國海軍の先輩に位する戰艦である。そしれこれ等の級は概ね同國地中海艦隊の主力部隊としてモルタ軍港を根據地に活躍している。“ヴアリアント”はこの寫眞で右のものがそれで、“ヴアリアント”の艦尾に碇泊しているのは“クヰン・エリザベス”。なお、陸岸近くの浮船渠(ドライドツク)に入渠しているのは“ウオースパイト”である。蓋し艦隊根據地にこの如く巨艦を自由に入渠せしむる浮船渠を有することは、大きな強みと云はねばならぬ。全長194.78米、幅31.69米、平均吃水9.34米、速力25節の速力に於ける軸馬力75,000馬力。
  2. ^ イギリス帝国マレー半島や周辺に保有していた海峡植民地のうち、マレー連合州は、それぞれマレーシアシンガポールとして独立した。
  3. ^ 戰艦“マラヤ Malaya[8] 全要目{排水量31,100噸 速力25節 備砲38糎砲8門 15糎砲12門 10糎高角砲4門 魚雷發射管2門(水中53糎) 起工1913年10月 竣工1916年2月 建造所エルスウイツク造船所} 1933年大改装を施し前檣、機關各部、装甲等に大なる進化振りを示した。就中装甲帶線に「バルヂ」を取付け航空機防禦のため露天甲板層を強化し且つ航續力の増加はその著しいものである。この艦の全長194.78米、幅31.69米、平均吃水9.34米、備砲として上記の外に3ポンド砲4門その他小砲計17門を有し、カタパルト1基を装備している。これ等戰艦の優れたる特異性はおの速力に於て25節を云ふ高速を出し得ることで、38糎砲を8門搭載してこの速力を誇り得ることは正に快速戰艦と稱するに足るものである。多く地中海艦隊に属し所謂地中海の王者を以て任じている堅艦である。
  4. ^ 主力艦隊の對抗演習[13] 戰艦“ヴアリアント”(31,100噸)の38糎巨砲(後部3、4番砲塔)の間から見た同じく戰艦“マラヤ”(31,100噸) “バーハム”(31,100噸) “クヰンエリザベス”(31,100噸) “ロドニー”(33,900噸) “ネルソン”(33,500噸)、の堂々たる航進振りである。流石は傳統を誇る英海軍だけに主力艦隊の航進振りを見ただけでも何となく品位と眞摯さとが備わっているかに窺はれるではないか。
    主力艦隊がかくして航進する時の各艦の間隔距離は通例艦の長さの約3倍にあたる600米乃至500米である。故に艦型が巡洋艦、驅逐艦と云ふ風に小さくなるにしたがつて距離を縮める。 なお、英國海軍では本國にあるを本國艦隊(戰艦7隻、巡洋艦5隻、航母1隻その他)と稱しこれは地中海艦隊と共に英國海軍の海上勢力の根幹をなしており、その他地中海に地中海艦隊(戰艦5隻その他)がモルタを根據地として在り、東洋方面に支那艦隊(巡洋艦5隻その他)が香港を根據地として在り、濠洲海軍(巡洋艦4隻その他) 東西印度艦隊アフリカ艦隊等に分たれて各々訓練に没頭している。
  5. ^ a b 戰艦“マラヤ Malaya[15] 全要目{排水量31,100噸 速力25節 備砲38糎砲8門 15糎砲12門 10糎高角砲4門 魚雷發射管2門(水中53糎) 起工1913年10月 竣工1916年2月 建造所エルスウイツク造船所} 1933年大改装を施し前檣、機關各部、装甲等に大なる進化を示した。就中バルヂを取付け航空機防禦のため露天甲板層を強化し、且つ航續力は著しく増加した。この艦は全長194.78米、幅31.69米、平均吃水9.34米。/38糎砲を8門搭載して優れたるその高速力25節を誇り得ることは正に快速戰艦と稱するに足るものである。地中海の王者を以て任ずること久しかつたが、伊國航空隊全盛のため、過般の伊エ戰爭でその價値如何をとはれたが、なほ海上威力は動かない。
  6. ^ 姉妹艦2隻(クイーンエリザベス、ヴァリアント)の大改造工事は未了であった[18]。10月14日に戦艦ロイヤル・オークU47に撃沈されたので、10月27日にウォースパイトは本国艦隊に呼び戻された[19]
  7. ^ 3月8日早朝、U-124英語版ドイツ語版U-105英語版ドイツ語版がSL-67船団を襲撃し、輸送船5隻(計28,488トン)を撃沈した[42]
  8. ^ (ニューヨーク六日同盟)[44] 艦名不詳の英國軍艦一隻が六日朝突如ニューヨーク港に入つた。ニューヨークデーリーニュースによれば右はクインヱリザベス級(三万六百トン)主力艦で十五吋砲八門を有しマラヤ號又はバーラム號いづれかだらうといはれてゐる。同艦左舷艦腹の中央部及やゝ前方寄りの装甲板に約二十六呎の破損個所があり武器貸與法の規定により米國で修理を受けるため入港したものらしく目下當地ブルツクリン海軍工廠で完成を待ちつゝある米主力艦ノースカロライナ號(三万五千トン)が九日就役するのを待ち同じドツクで修理を受けるものと見られる。(記事おわり)
  9. ^ 11月25日には、地中海艦隊の戦艦バーラムU-331英語版ドイツ語版に撃沈された(地中海におけるUボート作戦[45]。姉妹艦2隻(クイーン・エリザベス、ヴァリアント)も12月18日のアレクサンドリア港攻撃で大破着底した[46]
  10. ^ 戦艦「サウスダコタ[48]と戦艦「アラバマ[49]
  11. ^ 顕著な功績をあげることもなかったが、強いて言えば、SL-67船団護衛中に遭遇したシャルンホルスト級戦艦2隻を、無言のうちに退散させた。
  12. ^ The Battles of Coronel and Falkland Islands - インターネット・アーカイブで視聴できる。再生開始から間もなく「The ships that took part in the two actions are represented as undr」として配役が表示される。

脚注

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  1. ^ ジョーダン、戦艦 1988, pp. 50a-55イギリス クイーン・エリザベス級
  2. ^ ポケット海軍年鑑 1935, p. 79(原本140-141頁)戰艦ヴアリアント
  3. ^ a b 英国軍艦勇者列伝(2) 2020, p. 212.
  4. ^ ウォースパイト 1998, p. 29.
  5. ^ ジョーダン、戦艦 1988, p. 50b(マラヤ写真解説)
  6. ^ 壮烈!ドイツ艦隊 1985, p. 92.
  7. ^ ヒトラーの戦艦 2002, pp. 186–189船団襲撃
  8. ^ a b ポケット海軍年鑑 1935, p. 80(原本142-143頁)戰艦マラヤ
  9. ^ ウォースパイト 1998, p. 34.
  10. ^ ウォースパイト 1998, p. 56.
  11. ^ a b c 英国軍艦勇者列伝(2) 2020, p. 213.
  12. ^ ウォースパイト 1998, p. 70.
  13. ^ ポケット海軍年鑑 1935, p. 102(原本186-187頁)主力艦隊の對抗演習
  14. ^ 英国軍艦勇者列伝(2) 2020, p. 214.
  15. ^ ポケット海軍年鑑 1937, p. 74(原本130-131頁)戰艦マラヤ
  16. ^ ジョーダン、戦艦 1988, p. 51.
  17. ^ a b c 英国軍艦勇者列伝(2) 2020, p. 215.
  18. ^ ジョーダン、戦艦 1988, p. 53.
  19. ^ ウォースパイト 1998, p. 139.
  20. ^ 酒井、ラプラタ沖海戦 1985, pp. 41–48(3)アドミラル・グラーフ・シュペー出撃
  21. ^ 酒井、ラプラタ沖海戦 1985, p. 65第6図 シュペーの航跡図
  22. ^ 壮烈!ドイツ艦隊 1985, pp. 44–48ポケット戦艦で通商破壊作戦
  23. ^ 酒井、ラプラタ沖海戦 1985, p. 75第5表 1939年10月5日現在の掃討部隊編成
  24. ^ 酒井、ラプラタ沖海戦 1985, pp. 78–80.
  25. ^ 酒井、ラプラタ沖海戦 1985, p. 79第6表 1939年11月23日における掃討部隊配備
  26. ^ 壮烈!ドイツ艦隊 1985, pp. 56–58「シュペー」と艦長の劇的な最期
  27. ^ 潜水艦戦争 1973, p. 127b.
  28. ^ a b ウォースパイト 1998, p. 159.
  29. ^ ウォースパイト 1998, p. 160.
  30. ^ ウォースパイト 1998, p. 162.
  31. ^ ウォースパイト 1998, pp. 164–167カラブリア沖海戦 ― 戦闘
  32. ^ ウォースパイト 1998, p. 166.
  33. ^ ウォースパイト 1998, pp. 170a-172第一次バルディア砲撃
  34. ^ ウォースパイト 1998, pp. 170b-172.
  35. ^ ウォースパイト 1998, pp. 172a-173カニンガムの池
  36. ^ ウォースパイト 1998, p. 173.
  37. ^ 英国軍艦勇者列伝(2) 2020, p. 216.
  38. ^ ヒトラーの戦艦 2002, pp. 180–183"ベルリン作戦"はじまる
  39. ^ a b ヒトラーの戦艦 2002, p. 187.
  40. ^ 壮烈!ドイツ艦隊 1985, p. 89.
  41. ^ 世界の艦船増刊第67集
  42. ^ a b c ヒトラーの戦艦 2002, p. 188.
  43. ^ a b c d e f 英国軍艦勇者列伝(2) 2020, p. 218.
  44. ^ 謎の英國主力艦がひょっこり紐育へ入港 横腹に大穴をあけられて”. Hoji Shinbun Digital Collection. Kashū Mainichi Shinbun. pp. 03 (1941年4月7日). 2024年2月8日閲覧。
  45. ^ 潜水艦戦争 1973, pp. 127a-130最初の戦闘 アーク・ロイヤル(1941年11月14日)とバーラム(1941年11月25日)の喪失
  46. ^ 潜水艦戦争 1973, pp. 130–136イタリアの人間魚雷の武勲 1941年12月18日
  47. ^ 英国軍艦勇者列伝(2) 2020, p. 210.
  48. ^ Photo gallery of USS South Dakota at NavSource Naval History(イギリス本国艦隊と共に行動中の写真多数が掲載されている)
  49. ^ Photo gallery of USS ALABAMA at NavSource Naval History(イギリス本国艦隊と共に行動中の写真多数が掲載されている)
  50. ^ a b 英国軍艦勇者列伝(2) 2020, p. 219.

参考文献

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  • 岡部, いさく 著「File no.17 マレーからの贈り物 戦艦マレーヤ Battleship HMS Malaya」、小川 光二 編『英国軍艦勇者列伝2 Legend of British Fighting Ships 2』(初版)大日本絵画、東京都,千代田区、2020年10月。ISBN 978-4-499-23304-0 
  • エドウィン・グレイ『ヒトラーの戦艦 ドイツ戦艦7隻の栄光と悲劇』都島惟男(訳)、光人社〈光人社NF文庫〉、2002年4月。ISBN 4-7698-2341-X 
  • 酒井三千生『ラプラタ沖海戦 グラフ・シュペー号の最期』株式会社出版協同社、1985年1月。ISBN 4-87970-040-1 
  • ジョン・ジョーダン『戦艦 AN ILLUSTRATED GUIDE TO BATTLESHIPS AND BATTLECRUISERS』石橋孝夫(訳)、株式会社ホビージャパン〈イラストレイテッド・ガイド6〉、1988年11月。 
  • V.E.タラント『戦艦ウォースパイト 第二次大戦で最も活躍した戦艦』井原祐司 訳、光人社、1998年11月。ISBN 4-906631-38-X 
  • リチャード・ハンブル「通商破壊」『壮烈!ドイツ艦隊 悲劇の戦艦「ビスマルク」』実松譲(訳)、サンケイ出版〈第二次世界大戦文庫(26)〉、1985年12月。ISBN 4-383-02445-9 
  • レオンス・ペイヤール「7.地中海の潜水艦 一九四〇年~一九四二年」『潜水艦戦争 1939-1945』長塚隆二(訳)、早川書房、1973年12月。 
  • 国立国会図書館デジタルコレクション - 国立国会図書館

関連項目

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外部リンク

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