マンリオ・ブロジオ
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マンリオ・ブロジオ | |
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Manlio Brosio | |
マンリオ・ブロジオ(1967年) | |
第4代NATO事務総長 | |
任期 1964年8月1日 – 1971年10月1日 | |
前任者 | ディルク・スティッケル |
後任者 | ヨゼフ・ルンス |
個人情報 | |
生誕 | Manlio Giovanni Brosio 1897年7月10日 イタリア王国 トリノ |
死没 | 1980年3月14日 (82歳没) イタリア トリノ |
政党 | イタリア自由党 |
兵役経験 | |
所属国 | イタリア王国 |
所属組織 | イタリア王立陸軍 |
部隊 | アルピーニ |
戦闘 | 第一次世界大戦 |
マンリオ・ジョヴァンニ・ブロジオ(Manlio Giovanni Brosio、1897年7月10日 - 1980年3月14日)は、イタリアの法律家、外交官、政治家である。1964年から1971年までNATO事務総長を務めた。
生涯
[編集]ブロジオは1897年7月10日にトリノで生まれ、地元のトリノ大学で法律を学んだ。第一次世界大戦中はイタリア陸軍のアルピーニ連隊に砲兵士官として従軍した。戦後、大学を卒業して1920年に政界入りした。その後、ファシズムに反対したため、政治活動を禁じられた。
第二次世界大戦中、イタリアが1943年に連合国に占領された後、ブロジオは地下に潜り、国家解放委員会のメンバーとなった。戦後は政界に復帰し、副首相に就任した後、1945年に国防大臣に就任した。
1947年1月に駐ソ連大使に就任し、ソ連との平和条約交渉に携わった。1952年に駐英大使、1955年に駐米大使、1961年から1964年までは駐仏大使となった。
1964年5月12日、北大西洋条約機構は、ディルク・スティッケルの後任の事務総長にブロジオを選出した。同年8月1日に就任し、約7年務めた後、1971年9月3日に辞任を表明した。同年9月29日、リチャード・ニクソン米大統領から大統領自由勲章を授与された。
1955年6月2日にイタリア共和国功労勲章カヴァリエーレ・ディ・グラン・クローチェを受章した[1]。
歌手、ジャーナリストのヴァンナ・ブロジオは姪に当たる[2]。
脚注
[編集]- NATO Who is Who? Secretary General Manlio Brosio. Retrieved 2 October 2005.
- ^ “Le onorificenze della Repubblica Italiana”. www.quirinale.it. October 24, 2022閲覧。
- ^ Sergio Miravalle. "Intervista Giorgio e Paolo astigiani celebri". La Stampa. 27 July 1996. p.3.