マーティン・アトリー (第2代アトリー伯爵)
第2代アトリー伯爵マーティン・リチャード・アトリー(英語: Martin Richard Attlee, 2nd Earl Attlee、1927年8月10日 - 1991年7月27日)は、イギリスの貴族、政治家。英国首相を務めた初代アトリー伯爵クレメント・アトリーの息子。
生涯
[編集]政治家クレメント・アトリーとその妻ヴァイオレット・ミラー夫人との一人息子として生まれた[1][2]。父の手配の結果、教育者ジャック・マイヤーが設立したミルフィールド校(Millfield School)に入学した[註釈 1][3]。1945年から1950年にかけてイギリス海軍商船隊で勤務した[2]。1967年に父の死に伴い爵位を継承、貴族院における議席を得た[2]。以降は15年間にわたって労働党議員として活動したのち、1982年に社会民主党に入党、鞍替えしている[4][5]。その社会民主党は1988年にかつての二大政党の一角自由党と合流したが、アトリーはこれを良しとせず反対派議員デイヴィッド・オーウェンらの主導する新生「社会民主党」に加わった[註釈 2]。この際に、彼は「(私の行動を指して)父が草葉の陰で泣いているという人もいる。仮にもしそうだとしても、それは労働党という名の今見える光景のせいであろう。」との言葉を残している[6]。
1991年に63歳で脳卒中のため死去した[5]。爵位は息子のジョンが継承した[2]。
家族
[編集]1955年2月16日にアン・バーバラ・ヘンダーソン(Anne Barbara Henderson、1931年生 - 2018年5月31日没)と結婚して、一男一女をもうけた[2]。
- (長男)ジョン(1956年10月3日 - )- 第3代アトリー伯爵。
- (長女)ジェーン・エリザベス(1959年3月29日 - )
1988年にマーガレット・グーリエット(Margaret Gouriet、BBC所属の研究者ジョフリー・グーリエットの娘)と再婚したが、夫妻に子はなかった[2]。
脚注
[編集]註釈
[編集]出典
[編集]- ^ Hannam, June. "Attlee [née Millar], Violet Helen, Countess Attlee". Oxford Dictionary of National Biography (英語) (online ed.). Oxford University Press. (要購読、またはイギリス公立図書館への会員加入。)
- ^ a b c d e f Heraldic Media Limited. “Attlee, Earl (UK, 1955)” (英語). www.cracroftspeerage.co.uk. Cracroft's Peerage The Complete Guide to the British Peerage & Baronetage. 2020年9月7日時点のオリジナルよりアーカイブ。2020年9月7日閲覧。
- ^ Francis Beckett, Clem Attlee: Labour's Great Reformer (London: Haus Publishing, 2015), p. 126.
- ^ "ATTLEE, 2nd Earl (Martin Richard Attlee)". Who's Who & Who Was Who (英語). Vol. 2018 (online ed.). A & C Black. (要購読、またはイギリス公立図書館への会員加入) (要購読契約)
- ^ a b “Earl Attlee, 63, Dies; Founded British Party”. The New York Times. Associated Press. (28 July 1991) 12 September 2020閲覧。
- ^ 'Earl Attlee' obituary, Times, 29 July 1991, p. 16.
外部リンク
[編集]イギリスの爵位 | ||
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先代 クレメント・アトリー |
アトリー伯爵 1967年–1991年 |
次代 ジョン・アトリー |