コンテンツにスキップ

英文维基 | 中文维基 | 日文维基 | 草榴社区

ミハイル・セミョーノヴィチ・ヴォロンツォフ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

ミハイル・ヴォロンツォフ
ジョージ・ドー英語版による肖像画、1825年作、冬宮軍事美術館英語版所蔵。
生誕1782年5月30日
ロシア ロシア帝国サンクトペテルブルク
死没1856年11月18日
ロシア ロシア帝国オデッサ(現ウクライナ領)
埋葬地
所属組織ロシア ロシア帝国
部門ロシア ロシア帝国陸軍
軍歴1803年 - 1856年
最終階級陸軍元帥
戦闘
受賞聖アンドレイ勲章英語版
聖ゲオルギー勲章英語版
聖ウラジーミル勲章英語版
聖アンナ勲章英語版
配偶者エカチェリーナ・ブラニツカヤロシア語版

ミハイル・セミョーノヴィチ・ヴォロンツォフ公(ロシア語: Михаи́л Семёнович Воронцо́в1782年5月30日 - 1856年11月18日グレゴリオ暦))は、ロシア帝国の貴族、陸軍元帥。ナポレオン戦争コーカサス戦争でロシア軍を率いたことで知られる。

生涯

[編集]

出生からナポレオン戦争終結まで

[編集]

セミョーン・ヴォロンツォフ伯爵の息子、帝国宰相アレクサンドル・ロマーノヴィチ・ヴォロンツォフ伯爵の甥として、1782年5月30日にサンクトペテルブルクで生まれた。幼年期は父が駐在大使を務めるロンドンで過ごした[1][2]。1803年から1804年にかけてパヴレ・ツィツィシュヴィリ英語版ヴァシリ・グリアコヴィロシア語版の部下としてカフカースに駐留、1804年1月にはグリアコヴィのジャリ戦役ロシア語版で間一髪で死を逃れた[2](グリアコヴィ自身は戦死)。1805年から1807年までナポレオン戦争に参戦、プウトゥスクの戦い英語版フリートラントの戦いを戦った[2]。1809年から1811年まで露土戦争を戦った後、1812年ロシア戦役ピョートル・バグラチオンの部下として戦い、ボロジノの戦いで重傷を負ったが翌1813年に回復した[2]。1814年にはクラオンヌの戦い英語版ナポレオン・ボナパルトと戦い、1815年から1818年までフランス占領軍の指揮官を務めた[2]

ノヴォロシアとカフカースにて

[編集]
クリミア半島アルプカ英語版ヴォロンツォフ宮殿英語版。1890年から1905年の間の写真。

1823年5月7日、ノヴォロシア総督に任命された[2]。以降20年ほど務めたが、その間にノヴォロシアは大きな発展を遂げ、彼は「オデッサの創造者」と呼ばれた[2]。1828年に黒海ではじめて蒸気船を航行させ、同年の露土戦争では負傷したアレクサンドル・セルゲーエヴィチ・メーンシコフに代わってヴァルナ包囲戦英語版を指揮した[2]。続く1829年の戦役ではオスマン帝国で疫病が発生したが、ヴォロンツォフの努力で疫病がロシアに蔓延しないで済んだ[2]

妻のエカチェリーナ・ブラニツカヤロシア語版ジョージ・ヘイター作、1839年。

1844年、カフカース総督に任命された[2]カフカース・イマーム国英語版シャミールとの戦役、特にチェチェン東部の森を越える戦役での功績によりクニャージ(公)に叙され、1848年にはダゲスタンの3分の2を占領することに成功した[2]。1853年初に病気により引退、1856年に陸軍元帥に叙された後、同年にオデッサで死去した[2]。ヴォロンツォフの彫像はオデッサとトビリシで建てられた[2]

脚注

[編集]
  1. ^ Keegan, John. Wheatcroft, Andrew. Who's Who in Military History: From 1453 to the Present Day Routledge, 12 May 2014 ISBN 978-1136414169
  2. ^ a b c d e f g h i j k l m Bain, Robert Nisbet (1911). "Vorontsov s.v. Mikhail Semenovich Vorontsov" . In Chisholm, Hugh (ed.). Encyclopædia Britannica (英語). Vol. 28 (11th ed.). Cambridge University Press. p. 213.

関連図書

[編集]

外部リンク

[編集]
官職
先代
イヴァン・インゾフ英語版
暫定総督として
ノヴォロシア総督
1823年5月19日 - 1844年11月5日
次代
フリードリヒ・フォン・デア・パーレン英語版
先代
アレクサンドル・ナイドガルトロシア語版
カフカース総督
1844年 - 1854年
次代
ニコライ・レアトロシア語版
暫定総督として