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ミンチーニョ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
ミンチーニョ
မင်းကြီးညို

タウングー王
在位期間
1510年10月16日? – 1530(1531?)年11月24日
戴冠 1511年4月11日
先代 New office
Successor タビンシュエーティー

タウングー副王
在位期間
c. April 1485 – 16 October 1510
戴冠 1491年11月11日
先代 ミン・シトゥー
次代 ミンチー・スー

出生 c. July 1459
Wednesday, 821 ME
アヴァ?
死亡

1530年11月24日(1530-11-24)(71歳没)


ME892年ナドー月ラジャン5日[1]
タウングー
埋葬 タウングー
王室 タウングー家
父親 Maha Thinkhaya
母親 ミン・ラ・ニェット
配偶者 Soe Min Hteik-Tin
Thiri Maha Sanda Dewi
Yadana Dewi
Maha Dewi
Yaza Dewi
子女
タビンシュエーティー
Atula Thiri
信仰 上座部仏教
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タウングーにあるミンチーニョの像

ミンチーニョビルマ語: မင်းကြီးညို発音 [mɪ́ɰ̃dʑíɲò])、英語Minkyi-nyo, Mingyi Nyo1459年? - 1530年or1531年11月24日)は、ビルマタウングー王朝(トゥングー朝とも)の4代目の王。ティリ・ゼヤ・トゥーラThiri Zeya Thura)とも。タウングーの復古王朝を建国した。

1485年から1530年か1531年までの45年の治世の間、ミンチーニョのもとタウングーアヴァ王朝の僻地の属国から領土を拡大させ、小さくも安定した独立王国に成長した。1510年には、名目上の支配者となったアヴァからの独立を宣言した。上ビルマ(Upper Burma)では混沌とした戦乱が繰り広げられた中で、ミンチーニョは小国を保ち続け、王国の安定がアヴァから逃れてきた難民を惹きつけたことで、最終的にシャン州連合Confederation of Shan States1490年代 - 1527年)によるアヴァへの度重なる襲撃を回避した。安定した国を残したことで、後継者のタビンシュエーティー(在位: 1531年 - 1551年)は、タウングー帝国(Toungoo Empire)を建国するべくより大きな王国と争うことを考えられるようになったのである。

前半生

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ミンチーニョはマハー・シンハヤとミン・ラ・ニェットの間に生まれた[2]。父はピニャのチョスワ1世Kyawswa I of Pinya)の子孫で、自身はパガン朝の王ナラティーハパテピンヤ朝の王ティハトゥThihathu)の子孫であった。母はスワ・ソー・ケーSwa Saw Ke)の子孫であるタウングー総督シトゥ・チョーティンSithu Kyawhtin of Toungoo)の娘である[3]

以下に系図を示す。

16. Thettawshay of Sikyay
8. マハ・シンカヤ1世
17. Saw Min Hla of Sikyay
4. マハ・シンカヤ2世
18. Yaza Thura of Talok
9. ミン・シュウェ・パン(Min Shwe Pan)
19. Min Padamya
2. マハ・シンカヤ3世
10. ソー・ニャウン・メッカヤ(Saw Hnaung of Mekkhaya)
5. メッカヤ・ミンサミ(Mekkhaya Minthami)
1. ミンチーニョ
24. Sithu Thanbawa
12. Sithu of Paukmyaing
6. シトゥ・チョーティン
3. ミン・ラ・ニェット
28. Minkhaung I
14. ミニェ・チャズワen:Minye Kyawswa
29. Shin Mi-Nauk
7. ミン・ラ・トゥーen:Min Hla Htut of Pyakaung
30. Tarabya I of Pakhan
15. ソー・ミン・ラ

母方の祖父シトゥ・チョーティンがになったのは1470年で、それ以前はアヴァのティハトゥーラ1世の宮廷に仕えていたため、ミンチーニョはアヴァ(インワ)で生まれた可能性が高いと思われる。生年は1459年と思われるが記述に矛盾がある[注釈 3]。シトゥ・チョーティンの総督就任に伴い、家族全員でタウングーに移住したのは11歳か12歳頃のことであったと思われる。1481年にシトゥ・チョーティンがヤメシンという反乱軍との戦いで死去すると、長男のミン・シトゥ(Min Sithu)が総督の座を継承した[注釈 4]。 ミンチーニョは、いとこのソエ・ミン・テイク=ティン(Soe Min Hteik-Tin)と結婚することを望んでいた。しかし、叔父のミン・シトゥが要求を何度も拒否したため、1485年に叔父を殺害し、ソエを妻とした[4]。最終的にME847年にあたる1485年4月頃には権力を掌握したとされる[注釈 5]

治世

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叔父を暗殺し、副王権を掌握した後、ミンチーニョは2頭の若いをプレゼントとしてアヴァミンカウン2世に贈った。通常、総督を殺害することは重大な犯罪であった。しかし、ミンカウンはアヴァの近くで弟であったヤメシンのミニェ・チャウスワによる深刻な反乱に直面しており、さらに南に位置するプロム(Prome)は1482年に反乱を起こしていたため、さらなる反乱は望んでいなかった。結果ミンチーニョをタウングーの統治者として承認し、タウングーの反乱における協力を要請した。アヴァからの黙認の確約を得たミンチーニョは、ハンターワディー王国ラーンナーからも認められ、カレンニー族からの贖罪の貢物も受け取った[5]

アヴァの家臣として(1485年 - 1501年)

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ミンチーニョは、祖父のチョーティンを死に追いやったヤメシンとの戦いでアヴァを支援した。しかしながらヤメシンの反乱の鎮圧は難航し、ミニェが亡くなる1500年8月まで膠着状態が続いたとみられる。アヴァがヤメシンのことで手一杯になっていたことでミンチーニョはより自信を深め、1491年11月11日[注釈 6]には、タウングーに近いながらもカボン(Kabaung)川とポンラン(Paunglaung)川の河口にドゥワヤワディーDwayawaddy)という新しい要塞都市を建設した[6]

ミンチーニョはその後すぐに、南方の大国であったハンターワディー王国の即位に干渉し、自身の力を試した。1491年から1492年にかけて、ハンターワディーの新王ビニャー・ラン2世(Binnya Ran II)は、王族の子弟を全て殺し、政権を握った。ミンチーニョはこの混乱に乗じて、ミンカウン2世の許可なしにハンターワディー王国領に部隊を送り込んだ。カウンビャ(Kaungbya)では、シャン族の総督の象に飛び乗り、一騎打ちで斬り殺した[7]。ハンターワディーの対応は迅速で、1495年末、ビニャー・ランは陸海軍合わせて1万6千の軍勢を送り込み、最終的に要塞都市ドゥワヤワッディーを包囲した[8]。タウングー軍はかろうじて生き残ったが、ミンチーニョは残りの生涯、大きな隣国と戦争をすることはなかった。

ミンチーニョの攻撃がアヴァの許可なきものであったにもかかわらず、ミンカウンは、ハンターワディーの攻撃を生き延びたことを理由に、ミンチーニョの称号をマハ・ティリ・ゼヤ・トゥーラに格上げした。ミンカウンには忠実な臣(loyal vassal)の一人だったミンチーニョを擁立する以外に道はほとんどなかった。その見返りとして、タウングー側は1490年代の間、ヤメシンとプロムに対する遠征に参加することになった[9]

独立へ(1501年 - 1510年)

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16世紀に入ると、ミンチーニョのタウングーは名目上の支配者となったアヴァと同等の力を持つようになった。ミンチーニョは変わらずミンカウンに忠誠を誓っていたが、1500年8月にヤメシンの指導者ミニェ・チャウスワが死亡すると、約1000人のヤメシンの反乱軍を受け入れ、タウングーに逃れ、タウングーはこれを受け入れた。1501年4月にミンカウンが死去した時には、ミンチーニョは独立を主張する用意が出来ていた[10]。新王シュウェナンチャウシン(Shwenankyawshin)の命を狙う者たちを容易に庇護した。

北からのシャン族の襲撃という新たな、そしてより差し迫った問題に直面していた新王は、ミンチーニョが事実上の反乱をおこしていたにもかかわらずタウングーの忠誠を維持したがった。1502年、新王はミンチーニョを買収し、いとこであるミン・ラ・トゥト(Min Hla Htut、あるいはThiri Maha Sanda Dewi)を結婚させ、上ビルマで最も価値のある地域であるチャウクセ穀倉地帯(Kyaukse granary)を与えることにした。ミンチーニョはこの地域の統治を受け入れ、チャウクセとタウングーの間に住むヤメシン、メイッティーラなどの多くの人々を都に追いやった。しかし、アヴァには何の援助もしないばかりか、ニャウンヤンやプロムの王子たちの反乱に積極的に加担し、反乱軍とともに、遠く北のサレ(Sale)まで襲撃した。1509年には、タウンドゥウィンギ(Taungdwingyi)も支配下に入った[11]

復古王朝建国とその後

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1510年、彼はケトゥマティ(現在のタウングー)を築き、城壁を築いた。1510年10月16日[注釈 7](ME872年タザンモン月の満月の日[注釈 8])、ミンチーニョは正式にタウングー王国の独立[注釈 9]を宣言した。翌1511年4月11日戴冠式では、マハー・ティリ・ゼヤ・トゥーラ・ダンマ・ヤザ・ディパディMaha Thiri Zeya Thura Dhamma Yaza Dipadi)という王位を授けられた[12]。アヴァは、やはり北からのシャン族の襲撃という問題を抱えていたため、この決定に異議を唱える立場になかったが、いずれにせよこの発表はタウングーは1501年以来、事実上の独立国であったのもあって、単なる形式的なものであった。

正式な独立宣言の後、ミンチーニョは、1501年から1527年にかけて上ビルマの大部分で行われたアヴァとシャン州連合との間の戦いにほとんど関わらなかった。1523年3月15日(ME884年タバウン月新月の日[注釈 10])、アヴァが窮地に陥ったときには、前線基地を旧アヴァ領のヤメチンとタウンドゥウィンギに移動させた[13]。アヴァは1525年4月から5月にかけて1ヶ月間、タウングーを包囲したが、失敗に終わった。これを除いて、王国は概ね平和であった。

1527年3月、シャン州連合がついにアヴァを破ると、ミンチーニョはアバとトウングーの間にわざと井戸を埋め、水路を破壊し、トウングーと盟約者団の間に通行不能地域を作ろうと、田園地帯を荒廃させた。結果アヴァの官僚や住民は、多くがタウングーに逃げ込むことになった[14]。ミンチーニョは(諸説あるが)1530年11月24日に亡くなり、息子のタビンシュエーティーが後継になった。

死後

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ミンチーニョの45年間の治世は、上ビルマでは数少ない安定した政権であった。バゴヨマ(Bago Yoma)山脈とカレン山地の間に位置し、エーヤワディー川の流域から遮断されたタウングーの立地は、重要な利点であり、タウングーへの進軍には大きな労力を要した。王国の安定は多くの難民を引きつけることに繋がり、アヴァ崩壊後は流入が加速した。タビンシュエーティーとその副官バインナウンは、マンパワーの増加により、より大きな王国に対する攻勢的な戦争を構想することができた。タビンシュエーティーのハンターワディー王国に対するありえないような勝利は、ミンチーニョの長い安定した統治から始まっていたのである。

脚注

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注釈

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  1. ^ ビルマ歴の略称。
  2. ^ 短陰暦であるビルマ歴の1月には新月から満月にかけての前半期間をラジャン(လဆန်း)といい毎月15日ある。満月から月の最終日にある新月までの期間はリャブイェ(လပြည့်)。ただし、現在となっては実際の月の満ち欠けと位置することがほとんどない。
  3. ^ 年代記ではこの生年が一致していない。ある書物(Hmannan Vol. 2 2003: 182)では71歳で亡くなったとあり、没年月日はME[注釈 1]821年ナドー月ラジャン[注釈 2]5日(ユリウス暦1530年11月24日)で1484年に権力の座についたとされている。しかし同書にはME847年(ユリウス暦では1485年から1486年にあたる)に25歳で即位したとありこの場合ME822年(1460年ないし1461年)に生まれたことになる。
  4. ^ この時代の総督は世襲制であり、アヴァを度々苦しめる反乱の主な原因であった。その後、復権したタウングー王たちが総督の世襲制を廃止することになる。
  5. ^ 標準的な年代記にMaha Yazawin (Maha Yazawin Vol. 2 2006: 129) とHmannan Yazawin (Maha Yazawin Vol. 2 2003: 172) があるが、両方ともミンチーニョはME847年 (西暦1485/3/29 - 1486/3/28にあたる) に政権を取ったとしている。ME847年初頭(西暦でいう1485年4月頃)に政権を握った可能性が高いのは、両年代記が同時に、在位期間約46年としているためである。
  6. ^ ME853年ナドー月ラジャン(လဆန်း)12日(Sein Lwin Lay 2006: 57)。
  7. ^ なお年代記(Sein Lwin Lay 2006: 70)では、創建日をME872年タザンモンの満月の火曜日としているが、1510年10月16日の水曜日と訳されている。
  8. ^ 各月のラジャンの直後に置かれる日のこと。16日目。
  9. ^ 厳密には復活。復古タウングー王国Restored Toungoo dynasty)とも。
  10. ^ 月末にあたる。

出典

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  1. ^ Hmannan Vol. 2 2003: 182
  2. ^ Hmannan Vol. 2 2003: 173
  3. ^ Hmannan Vol. 2 2003: 171
  4. ^ Harvey 1925: 102–103
  5. ^ Harvey 1925: 124–125
  6. ^ Sein Lwin Lay 2006: 56–57
  7. ^ Harvey 1925: 124–125
  8. ^ Sein Lwin Lay 2006 59–60
  9. ^ Fernquest
  10. ^ Fernquest
  11. ^ Harvey 1925: 124–125
  12. ^ Sein Lwin Lay 2006: 79–80
  13. ^ Sein Lwin Lay 2006: 103
  14. ^ Harvey 1925: 124–125

参考文献

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