バハードゥル・シャー1世
バハードゥル・シャー1世 بہادر شاه اول | |
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ムガル皇帝 | |
バハードゥル・シャー1世 | |
在位 | 1707年6月19日 - 1712年2月27日 |
戴冠式 | 1707年3月27日 (5月2日) |
別号 | パードシャー |
全名 | クトゥブッディーン・ムハンマド・ムアッザム |
出生 |
1643年10月14日 ブルハーンプル |
死去 |
1712年2月27日 ラホール |
埋葬 | モーティー・マスジド |
配偶者 | ニザーム・バーイーなど |
子女 | ジャハーンダール・シャーなど |
王朝 | ムガル朝(ティムール朝) |
父親 | アウラングゼーブ |
母親 | ナワーブ・バーイー |
宗教 | イスラーム教(スンナ派) |
バハードゥル・シャー1世(ウルドゥー語: بہادر شاه اول, Bahadur Shah I, 1643年10月14日 - 1712年2月17日)は、北インド、ムガル帝国の第7代君主(在位:1707年 - 1712年)。シャー・アーラム(Shah Alam)あるいはシャー・アーラム1世(Shah Alam I)としても知られる。第6代君主アウラングゼーブの次男で、母はナワーブ・バーイー。
父の死後、バハードゥル・シャー1世は2人の兄弟アーザムとカーム・バフシュを討ち、帝位を確固たるものとした。
だが、父の治世における反動があらわれはじめ、マラーター、ラージプート、ジャート、シク教徒など異教徒の離間もあり、これらに対する戦闘は帝国に巨額の出費をもたらした。また、ジャーギールを与えすぎたことも、結果として財政の悪化につながった。
1712年、バハードゥル・シャー1世は死亡し、その死後には4人の息子らによる帝位継承戦争があった。
生涯
[編集]即位以前
[編集]1643年10月14日、バハードゥル・シャー1世ことムアッザムは、ムガル帝国の皇帝アウラングゼーブとその妃ナワーブ・バーイーとの間に生まれた[1][2][3]。
父アウラングゼーブは皇帝に即位すると、ムガル帝国の宗教寛容政策を捨て、異教徒を弾圧するようになった。だが、ムアッザムはそれに反対するなど、父とは違う一面を持っていた。
1661年7月、デカン総督のジャイ・シング(アンベール王国の君主でもある)が死ぬと、ムアッザムはその後任としてデカンへ赴いた。
ムアッザムがデカンのアウランガーバードに着くと、当時アウラングゼーブと対立していたマラーターの指導者シヴァージーは、10月に息子サンバージーを使者として送った。同月にサンバージーがアウランガーバードに到着すると、ムアッザムはサンバージーを歓迎し、彼らはとても親しい関係となり、講和条約を締結することをなった。
だが、父帝アウラングゼーブは、ムアッザムがマラーターと親密になったことを嫌い、彼はアフガニスタンの総督として左遷された。
しかし、ムアッザムはアフガニスタンに派遣されたのち、父と対立していたパンジャーブの シク教の教主グル・ゴーヴィンド・シングとは講和にはいたらなかったものの、一定の友好関係にあった。
1681年9月以降、父帝アウラングゼーブはデカンに遠征し(デカン戦争)、デカン諸国を一連の戦闘で破り、サンバージーも1689年3月に殺され、その没年までに帝国の領土を最大にした[4]。
即位と弟たちとの争い
[編集]1707年3月3日、アウラングゼーブがデカンで死ぬと、同月27日あるいは29日にムアッザムはカーブルにおいてアウラングゼーブの後継者として帝位を宣し、勇猛な王を意味する「バハードゥル・シャー(1世)」を号した[2]。ただし、帝位を宣したのは同年5月2日、ペシャーワルだとする場合もある[2]。
その後、ムアッザムはすぐさまアフガニスタンを離れ、アーグラに到着したのち、国庫を押さえた[5]。
しかし、その弟アーザムとカーム・バフシュはこれに反対し、彼らもまた帝位を宣し、公然と各地で反抗し始めたため、バハードゥル・シャー1世はこれらを討伐することを決めた[5]。
同年6月19日、バハードゥル・シャー1世はアーザムの軍をジャージャウーの戦いで破り、彼とその息子ビダル・シャーを殺害した(別の息子ワッラー・ジャーも殺した)[6]。別の弟カーム・バフシュはデカンで抵抗していたが、1709年1月13日にハイダラーバードで彼を打ち破り、翌日にカーム・バフシュはこの戦で受けた傷がもとで死んだ(ハイダラーバードの戦い)[1]。
こうして、バハードゥル・シャー1世は、弟2人と甥2人を殺害し、その王座を揺るぎないものにした[5]。
統治
[編集]バハードゥル・シャー1世は統治をはじめると、アウラングゼーブの宗教不寛容政策を見直し、その在位期間に帝国領のヒンドゥー寺院が破壊されることはなかった。
とはいえ、ラージプートの諸国に対しては、父と対立していたマールワール王国のみならず、忠実だったアンベール王国へもその支配を強めようとし、アンベール王ジャイ・シング2世を弟のヴィジャイ・シングに代えようとした[7]。また、両国の首都アンベールとジョードプルにそれぞれ軍勢を駐屯させ、帝国の権威に屈服させようとさえした[7]。
しかし、この試みは結局のところ失敗し、バハードゥル・シャー1世は両国と和議を結んだ。とはいえ、両国の王が要求したより高位のマンサブ(位階)、マールワーやグジャラートの太守(スーバダール)位は拒否した[7]。
一方、パンジャーブのシク教教主ゴーヴィンド・シングとは、マンサブを与えることで講和し、面会もしている。ゴーヴィンド・シングはバハードゥル・シャー1世に忠実で、1708年にはデカンへのマラーターの討伐にも加わるほどだったが、シルヒンドの知事ワズィール・ハーンは皇帝との講和を疑っており、10月に彼を暗殺してしまった。
これにより、帝国とシク教徒の講和は決裂し、シク教徒はバンダー・バハードゥルに率いられて帝国に反乱を起こすこととなった。
後期ムガル帝国への道と死
[編集]しかし、バハードゥル・シャー1世がその治世間の戦闘で、戦功をたてたインド人を貴族に多数とりたてたことは、イラン系、トルコ系、モンゴル系の貴族を憤慨させ、ムガル宮廷の分裂を招いた[5]。そのうえ、バハードゥル・シャー1世がジャーギール(給与地)を与えすぎた結果、帝国の行政は悪化し、財政は急速に悪化していった[8]。
さらに、アウラングゼーブの死後、ムガル帝国の領土では各地で反乱が頻発し、マラーターが勢いを取り戻してデカンや北インド方面の各地を略奪していた[5]。
父の治世から反乱を起こしていたジャート族も、アーグラ付近のバラトプルで反乱を継続し、ムガル帝国の根幹を脅かすようになった[9]。
パンジャーブでも、ゴーヴィンド・シングが暗殺されたことで、シク教徒がバンダー・バハードゥルに率いられ反乱を起こしていた。
ラージプート諸王国は自分の領地の主権を取り戻して事実上帝国から独立し、ザミーンダールのなかでも大きなものは半独立化し、納税を拒否する者もあらわれた。
このような皇位継承戦争や反乱軍との戦いは、帝国に巨額の出費を強いることになった[9]。デカン戦争以来ずっと悪化していた財政をさらに圧迫し、1707年の段階で1億3000万ルピーあった帝国の国庫はその治世に底をついた[8]。バハードゥル・シャー1世の治世に関して、歴史家ハーフィー・ハーンはこう断言している[5]。
「 | 「帝国には出費をまかなうだけの収入がない」 | 」 |
アウラングゼーブの死後、その悪政の結果として徐々に崩壊に向かっていった帝国は、バハードゥル・シャー1世ではどうすることもできず、彼の治世は後期ムガル帝国への始まりであった[5]。
そうしたなか、1712年2月27日、バハードゥル・シャー1世はラホールで死亡した[2]。その4人の息子たちの間で帝位をめぐり次の皇位継承戦争が始まり、帝国はまたしても破滅への道を歩んでいった[5][8]。
人物・評価
[編集]バハードゥル・シャー1世は学識のある有能な人物だったが、その治世は5年に満たずとあまりにも短く、49年と長く続いた父帝アウラングゼーブの治世と比べると対照的であった。
ハーフィー・ハーンは、バハードゥル・シャー1世の人物像を次のように述べている[3]。
「 | 「悪徳には染まっていないが、国の防衛や領土の統治及び管理になると、一人よがりで投げやりになる」 | 」 |
とはいえ、バハードゥル・シャー1世は父帝とは違い、帝国の宗教寛容政策を守ろうとした人物であり、彼はその短い治世の間、父の代からの問題を取り除こうとしたのもまた事実である[8]。
もし、バハードゥル・シャー1世の治世がもう少し長く続けば、多少なりとも帝国の運命は好転したかもしれない、とビパン・チャンドラは語っている[8]。
家族
[編集]父母
[編集]后妃
[編集]正室
[編集]- ニザーム・バーイー
- アムリタ・バーイー
- 氏名不詳(アブドゥル・ムーミンの娘)
- ヌールンニサー・ベーグム
- ミフルンニサー・ベーグム
- アマトゥル・ハビーブ・ベーグム
- チャタル・バーイー
- ディル・ルバー・バーグム
計8人[2]。
側室
[編集]なし。
息子
[編集]- ジャハーンダール・シャー
- アアッズッディーン・ムハンマド
- アズィーム・ウッシャーン
- ラフィー・ウッシャーン
- ダウラト・アフザル
- ジャハーン・シャー
- フマーユーン
- 氏名不詳(アマトゥル・ハビーブ・ベーグムとの間の息子)
計8人[2]。
娘
[編集]- ダフル・アフルーズ・バーヌー・ベーグム
- ミフルンニサー・ベーグム
- アズィーズンニサー・ベーグム
計3人[2]。
脚注
[編集]- ^ a b Delhi 7
- ^ a b c d e f g Delhi 9
- ^ a b ロビンソン『ムガル皇帝歴代誌』、p.247
- ^ ロビンソン『ムガル皇帝歴代誌』、p.242
- ^ a b c d e f g h ロビンソン『ムガル皇帝歴代誌』、p.248
- ^ Delhi 8
- ^ a b c チャンドラ『近代インドの歴史』、p.3
- ^ a b c d e チャンドラ『近代インドの歴史』、p.4
- ^ a b ロビンソン『ムガル皇帝歴代誌』、p.227
参考文献
[編集]- フランシス・ロビンソン 著、月森左知 訳『ムガル皇帝歴代誌 インド、イラン、中央アジアのイスラーム諸王国の興亡(1206年 - 1925年)』創元社、2009年。
- ビパン・チャンドラ 著、栗原利江 訳『近代インドの歴史』山川出版社、2001年。