ムスチスラフ・スヴャトポルコヴィチ
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ムスチスラフ・スヴャトポルコヴィチ Мстислав Святополкович | |
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ベレスチエ公 ヴォルィーニ公 | |
ヴォルィーニ公ダヴィドのウラジーミル・ヴォルィンスキー包囲;ムスチスラフの死 | |
在位 |
ベレスチエ公:1093年 - 1097年 ヴォルィーニ公:1099年 |
死去 |
1099年6月12日 |
家名 | リューリク家 |
父親 | キエフ大公スヴャトポルク2世 |
ムスチスラフ・スヴャトポルコヴィチ(ロシア語: Мстислав Святополкович、? - 1099年6月12日)は、スヴャトポルク・イジャスラヴィチの子である。スヴャトポルクの子の中では年長の子で、おそらく側室の子と考えられている。ベレスチエ公(在位:1093年 - 1097年[1])、ヴォルィーニ公(在位:1099年)。『原初年代記』には、ムスチスラフの死に関する記述が1097年と1099年の頁に見られるが、V.タチシチェフ(ru)は、ウラジーミル・ヴォルィンスキー包囲戦(内戦後半参照)と死とを関連づけた1099年説を採っており、1097年説よりも可能性が高い。
生涯
[編集]G.シャフロフの説によれば[1]、ムスチスラフは1093年から1097年にかけてはベレスチエ公であったとされる。一方『ブロックハウス・エフロン百科事典』は、1095年から1097年にかけてはノヴゴロド・セヴェルスキー公であったと記載している。
1098年のゴロデツ諸公会議の決定事項を受けて、ヴォルィーニ公ダヴィド追討軍を発した父のスヴャトポルクは、1099年の聖大土曜日(4月9日)にウラジーミル・ヴォルィンスキーを陥し、ムスチスラフをヴォルィーニ公に据えた。しかし同年、ダヴィドはウラジーミル・ヴォルィンスキーを包囲した。ムスチスラフは都市城壁の土塁(Заборол:ザボロル(ru)。なおこの件に関する記述が、ザポロルという用語の初出でもある。)付近で射られ、死亡した。終戦後のウラジーミル・ヴォルィンスキーにはムスチスラフの兄弟のヤロスラフがナメストニク(公代理)として配置された。
出典
[編集]- ^ a b Шафров Г.М. Генеалогические таблицы по истории европейских государств. Издание 6 исправленное и дополненное (441 таблица) - Москва-Екатеринбург-Ташкент, 2013 - с.1007
参考文献
[編集]- Подробно оборона Владимира-Волынского описывается в книге С. М. Соловьева ИСТОРИЯ РОССИИ с древнейших времен, 1852 г., том 2, в главе 3 "События при внуках Ярослава I (1093 - 1125)".
- В.С.Елагин, В.В.Назанский "Историко-биографический словарь "Повесть временных лет"", НГПУ, 2002
- Н. В. Водовозов. "История древней русской литературы" Издательство "Просвещение", Москва, 1972 г.
- ブロックハウス・エフロン百科事典
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