ムハンマド・サーレム・バーシンドワ
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ムハンマド・サーレム・バーシンドワ محمد سالم باسندوة | |
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生年月日 | 1935年4月4日(89歳) |
出生地 | アデン植民地、アデン |
所属政党 |
(社会主義人民党→国民全体会議→) 無所属 |
第7代イエメン共和国首相 | |
在任期間 | 2011年12月10日 - 2014年11月9日 |
大統領 |
アリー・アブドッラー・サーレハ アブド・ラッボ・マンスール・ハーディー |
在任期間 | 1993年 - 1994年 |
首相 | ハイダル・アブーバクル・アル=アッタース |
ムハンマド・サーレム・バーシンドワ (アラビア語: محمد سالم باسندوة, ラテン文字転写: Mohammed Salim Basindawa、1935年[1][2]4月4日 - )は、イエメンの政治家、元ジャーナリスト、元商人。前同国首相。外務大臣などを歴任した。
経歴
[編集]アデンに生まれる。若い頃は商人で、スリランカに干物を売っていた[1]。
1996年1月の創設以来「占領下南イエメン解放戦線」の幹部を務めるなど独立運動家として活躍、1962年と1967年の2度、イギリス占領当局に逮捕されている[2]。一方で1962年に創設された社会主義人民党の幹部でもあり、1964年には党首になっている。1965年には関心を北に向けてタイズに移り、当地で南北統合に向けた努力を行った[1]。
1970年代初頭にサナアに移住、以後、政治家として閣僚を歴任[1]し、1993年から1994年にかけては外務大臣を務めた[3][4]。与党・国民全体会議に所属していたが、サーレハ大統領に野党と共に反対するため2000年代初めに無所属となった[5]。
2011年の反政府運動においてサーレハ政権後の首相候補として野党より5月の時点で名前を挙げられた[6]。同年8月、革命勢力国民会議の議長となる[2]。 その後も反政府運動は続き、サーレハは11月23日に大統領権限をアブド・ラッボ・マンスール・ハーディー副大統領に委譲することに同意。挙国一致内閣の首班として野党より指名を受け、11月27日にハーディー副大統領より首相に指名された[4]。12月8日に副大統領によって新政府が承認され、12月10日に首相に就任した[7]。
参考文献
[編集]- ^ a b c d “New Yemen premier has roots in revolution” (英語). アル=アハラーム. (2011年12月8日) 2012年12月5日閲覧。
- ^ a b c “من هو محمد سالم باسندوة؟ .. السيرة الذاتية لرئيس الحكومة القادمة” (アラビア語). صحافة نت. (2011年11月25日) 2012年12月5日閲覧。
- ^ http://rulers.org/fm4.html
- ^ a b “イエメン暫定首相に元外相指名、北部の宗派間衝突で25人死亡”. ロイター (ロイター). (2011年11月28日) 2012年1月3日閲覧。
- ^ “Yemeni opposition names a former member of Saleh’s party as candidate to government” (英語). AL ARABIYA NEWS (アル=アラビーヤ). (2011年11月26日) 2012年1月3日閲覧。
- ^ “イエメン大統領、GCC調停案への署名を再び拒否”. ロイター (ロイター). (2011年5月19日) 2012年1月3日閲覧。
- ^ “イエメン、挙国一致内閣を発足 宣誓就任式行う”. AFPBB News (フランス通信社). (2011年12月11日) 2012年1月3日閲覧。
公職 | ||
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先代 アリー・ムハンマド・ムジャッワル |
イエメン共和国首相 第7代:2011年 - 2014年 |
次代 ハーリド・バハーハ |
先代 アブドルカリーム・アル=イリヤーニー |
イエメン共和国外務大臣 1993年 - 1994年 |
次代 アブドルカリーム・アル=イリヤーニー |