メアリー・アン・リー

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メアリー・アン・リーMary Ann Lee1824年7月 - 1899年1月25日)は、アメリカ合衆国バレエダンサーバレエ指導者である[注釈 1][1][2][3]。アメリカ合衆国内で名声を得た初めての合衆国出身バレリーナであり、1846年にアメリカ合衆国内で初めて『ジゼル』(アドルフ・アダン作曲)のタイトルロールを踊ったことでも知られる [注釈 2][1][2][3]。健康上の理由で若くして現役を退いた後、1860年にフィラデルフィアに舞踊学校を開いた[1]

生涯[編集]

フィラデルフィアの生まれ[1][3]。俳優の家系の出身で、父親は彼女が幼い時に死亡した[2]。リーは母親を養うために早くから舞台に立ち、1832年頃に子役として演劇の舞台にデビューした[1][2]。生地でポール・アザールという指導者についてバレエを学んだ。アザールはパリ・オペラ座コール・ド・バレエとして舞台に立っていた人物で、彼の夫人もブリュッセルの王立劇場出身の踊り手であった[2]

リーと同じくアザールの指導を受けた踊り手の中に、オーガスタ・メイウッド(1825年 - 1876年11月3日)がいた[2][4]。メイウッドはニューヨークの生まれで、やはり俳優の家系の出身であった[2][4]。リーとメイウッドの2人は、1837年の暮れにフィラデルフィアのチェスナットストリート劇場でダニエル=フランソワ=エスプリ・オベールのオペラ・バレエ『カシミールの娘』(The Maid of Cashmere)でともにデビューした[注釈 3][1][2]。『カシミールの娘』の原題(フランス語)は『神とバヤデール(Le Dieu et La Bayadere)』といい、ゲーテバラードを原作にした作品であった[注釈 4][2][5]

『カシミールの娘』の主役、ゾロエは舞踊の技術に優っていたメイウッドが踊り、リーはファティマという脇役を踊った[2]。リーもメイウッドもそれぞれに魅力的な踊り手であり、2人が踊りを競う場面では、観客はリー派とメイウッド派に分かれて熱狂し、喝采や花束を贈ったと伝わる[2][6]。2人の人気についての評判はニューヨークにも届いた。1838年、リーとメイウッドはともにニューヨークの劇場主から劇場への出演を要請されたが、このときはメイウッドのみがその誘いに応じた[2]

メイウッドの踊りはニューヨークでも好評を博し、3月にはフィラデルフィアに戻ってきて再びリーと共演した[2]。このときの出し物はジャン・シュネゾフェール作曲、フィリッポ・タリオーニ振付のバレエ『ラ・シルフィード』に想を得た『山のシルフ』という作品で、メイウッドが主役のシルフ、リーは脇役の村娘フローラを踊った[2]。メイウッドの養父は劇場主でプロデューサーであり、そのためリーよりも厚遇される状態であったので2人の仲は険悪なものになっていった[2]。この状態は長く続かなかった。1838年のうちにメイウッドは一家でパリに移住し、2度とアメリカ合衆国で舞台に立つことはなかった[2][4]

リーはフィラデルフィアに残って、『カシミールの娘』や『ラ・シルフィード』などの主役を踊った[2]。1839年には、ニューヨークのバワリー劇場でのデビューを果たし、『カシミールの娘』を踊った[1][2]。舞台は好評を持って迎えられ、『カチュチャ』(当時の人気バレリーナ、ファニー・エルスラーの代表作として知られる)を踊ったときには、ときの合衆国大統領も鑑賞に訪れたという[2]

リーはニューヨークでジェームズ・シルヴァンに師事した[1][2]。シルヴァンはファニー・エルスラーのパートナーを務めたダンサーで、リーに『カチュチャ』を始めとするエルスラーのソロレパートリー(『クラコヴィエンヌ』、『ボレロ』など)を教えた[1][2]。ニューヨーク滞在中には、エルスラーと並ぶ人気バレリーナ、マリー・タリオーニの弟ポール夫妻の来演や、エルスラー自身の来演(1840年)などもあり、リーにとってはバレリーナとしての成長に大いに有意義なものとなった[2]

ニューヨークデビューの後は、小さなグループを結成して合衆国内を巡演し、1842年にはボストンで『ラ・シルフィード』(フィリッポ・タリオーニ版)のタイトルロールを自身の演出によって踊った[1][2]。アメリカ合衆国内で随一のバレリーナとしての名声を得て、ニューヨークでの公演のほかに故郷のフィラデルフィアの舞台にも出演した[2]。当時リーが踊った作品にはジャコモ・マイアベーアのオペラ『悪魔のロベール』(Robert le diable)のバレエシーン、オベールのオペラ『ポルティチの唖娘』などが含まれている[2]

1844年、リーはかねてからの念願だったパリ行きを果たした[1][2]。パリではオペラ座バレエ学校へ通うことになり、ジャン・コラーリの指導を受けた[注釈 5][7]。パリにはわずか10か月ほど滞在しただけで帰国することになったが、舞踊の技術は上達していたし、新たなレパートリーも習得していた[7]

帰国後すぐに、新たなレパートリーの1つ『ゲントの美しい娘』(La Jolie Fille de Gand、アドルフ・アダン作曲)を上演した[7]。相手役はアメリカ合衆国で最初のダンスール・ノーブルと評価されるジョージ・ワシントン・スミス(1820年 - 1899年)で、リーと同じくアザールのもとでバレエを習い、後にファニー・エルスラーの一座に加入してダンサーとして出演した人物であった[7]。1846年の1月1日には、ボストンの劇場で『ジゼル』のタイトルロールを踊った[注釈 2][1][7]。このときの相手役アルブレヒトは、やはりスミスが踊った[7]。同年4月にはニューヨークでも『ジゼル』を上演し、評判は上々でボストンでも再演している[7]

アメリカ合衆国へのバレエ普及に功績を上げたリーは健康を害し、1847年6月に20代前半で引退することになった[1][7]。最後の舞台は生地フィラデルフィアで、プログラムには出世作『カシミールの娘』も入っていた[7]。リーは1847年11月11日にウィリアム・ヴァン・フックというフィラデルフィアの商人と結婚し、3人の子の母となった[6]。引退後もときおり舞台に立ち、1860年には生地に学校を舞踊学校を開いた[1][6]。リーは1899年に生地で死去し、ローレル・ヒル墓地に埋葬された[1][6]

脚注[編集]

注釈[編集]

  1. ^ 生年については、1823年説もある。本稿では『オックスフォード バレエダンス事典』の記述に拠った。
  2. ^ a b アメリカ人として初めて『ジゼル』のタイトルロールを踊ったのは、オーガスタ・メイウッドである。上演地はリヨンで、1843年のことであった。
  3. ^ 劇場名を「ウォールナッツ劇場」と書いた文献も存在する。
  4. ^ この作品は、レオン・ミンクス作曲、マリウス・プティパ振付のバレエ『ラ・バヤデール』の原型になった作品といわれる。
  5. ^ ジャン・コラーリはリーよりも先にパリへ行ったオーガスタ・メイウッドの指導も手掛けている。

出典[編集]

  1. ^ a b c d e f g h i j k l m n o 『オックスフォード バレエダンス辞典』579-580頁。
  2. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v w x y z 薄井、40-43頁。
  3. ^ a b c Mary Ann Lee (American dancer) Britannica Online Encyclopedia 2013年12月21日閲覧。(英語)
  4. ^ a b c 『オックスフォード バレエダンス辞典』540頁。
  5. ^ 『オックスフォード バレエダンス辞典』125頁。
  6. ^ a b c d Notable American Women: Mary Ann Lee 2013年12月21日閲覧。(英語)
  7. ^ a b c d e f g h i 薄井、44-47頁。

参考文献[編集]

外部リンク[編集]