メティン・オクタイ
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名前 | ||||||
愛称 | 無冠の帝王 | |||||
ラテン文字 | Metin Oktay | |||||
基本情報 | ||||||
国籍 | トルコ | |||||
生年月日 | 1936年2月2日 | |||||
出身地 | イズミル県カルスヤカ | |||||
没年月日 | 1991年9月13日(55歳没) | |||||
身長 | 177cm | |||||
選手情報 | ||||||
ポジション | FW(CF) | |||||
ユース | ||||||
1952-1953 | ダムラツクスポル | |||||
1953-1954 | ユン・メンスカト | |||||
クラブ1 | ||||||
年 | クラブ | 出場 | (得点) | |||
1954-1955 | イズミルスポル | 18 | (17) | |||
1955-1961 | ガラタサライ | 164 | (174) | |||
1961-1962 | パレルモ | 12 | (3) | |||
1962-1969 | ガラタサライ | 180 | (137) | |||
代表歴 | ||||||
1954 | トルコ U-18 | 4 | (3) | |||
1955-1968 | トルコ | 36 | (19) | |||
監督歴 | ||||||
1970 | ガラタサライ | |||||
1972 | ブルサスポル | |||||
1. 国内リーグ戦に限る。 ■テンプレート(■ノート ■解説)■サッカー選手pj |
メティン・オクタイ(トルコ語: Metin Oktay、1936年2月2日 - 1991年9月13日)は、トルコの元サッカー選手。元トルコ代表。ポジションはFW。
選手初年度から5年連続で地域リーグの得点王に輝き、その翌年に発足したトルコ全国1部リーグでも3年連続、合計6回得点王に輝いたトルコサッカー史に残るストライカーである。サッカー選手としての殆どをガラタサライで過ごし、1966-67シーズンを除く13シーズンではクラブで一番の点取り屋であったが、リーグ制覇は4回に止まったため、ガラタサライのファンからは無冠の帝王(Taçsız Kral)と呼ばれていた。
クラブ歴
[編集]1936年2月2日、イズミル県カルスヤカの生まれ[1]。父は工場労働者、母は主婦であった[1]。
1952年にダムラツクスポル、翌年にユン・メンスカトに所属した。1954年にアンダー代表に招集されると、同年にイズミルスポルに完全移籍し選手となった。選手初年度からイズミル・フットゥボル・リギで17得点を記録しリーグ得点王に輝いた。
翌1955年にギュンデュズ・クルチの誘いでイスタンブル・フットゥボル・リギ所属のガラタサライに完全移籍。19歳ながらシボレーの車と引き換えに5年契約を締結した。初年度から19得点をあげて得点王に輝くと、その後リーグ解消までの4年間得点王で在り続けた。1959年に全国リーグが発足してもそれは変わらなかった。1960年にはクラブ史上初の大型契約で契約更新、これと引き換えに彼は、イズミルスポルに戻ってプレーしてほしかった妻と離婚した。同年12月のフェネルバフチェSK戦では4得点を記録し5-0の大勝の立役者になると、ライバル相手に大勝を齎した彼に対して専用の応援歌が作られ、さらに現役であるにも関わらず半生を辿る映画まで作られた。
1961-62シーズンにはUSチッタ・ディ・パレルモに在籍したが、12試合3得点と揮わず、1シーズンでガラタサライに帰還した。
復帰した1962-63シーズンも得点王となったが、翌シーズンはイタリア時代を除くと初めて得点王を逃した。それでも翌1964-65シーズンに再び得点王に輝いた。1966-67シーズンにはクラブ内の得点王もアイハン・エルマスタショールに譲ったが、1968-69シーズンに再びリーグ得点王に輝いた。この全国リーグ6回目、累計11回目の得点王の獲得とともに引退した。
選手としては全国1部だけで累計217得点を記録し、この記録はタンジュ・チョラクが破るまで史上最多記録であった。また、ダービーマッチに強い選手としても知られ、フェネルバフチェ相手に累計18得点、特に1959年の試合でゴールネットに穴を開けたゴールはサポーターの間で語り継がれている。まあ、ベシクタシュJK相手にも累計13得点を記録している。
代表歴
[編集]1954年にアンダー代表としての出場経験がある。
1955年12月18日のポルトガル代表との親善試合でA代表初出場を記録した[2]。トルコ代表としては累計36試合19得点の記録を有している。
選手引退後
[編集]引退後はそのままガラタサライでアシスタントコーチに就任。同シーズンにトップチームの監督も務めた[3]。その後、ブルサスポルの監督も経験した[4]。
1991年9月13日、イスタンブールで交通事故のため、死亡した[1]。
功績
[編集]彼の命日である9月13日には、イスタンブールにある彼の墓にガラタサライサポーターが毎年集まって追悼する文化が根付いている。また、ガラタサライの練習施設名はフロルヤ・メティン・オクタイ・テシスレリであり、彼の名前がつけられている。
個人成績
[編集]太字は得点王を表している。
国内大会個人成績 | |||||||||||
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年度 | クラブ | 背番号 | リーグ | リーグ戦 | リーグ杯 | 期間通算 | |||||
出場 | 得点 | 出場 | 得点 | 出場 | 得点 | ||||||
トルコ | リーグ戦 | トルコ杯 | 期間通算 | ||||||||
1954-55 | イズミルスポル | イズミル | 18 | 17 | - | 18 | 17 | ||||
1955-56 | ガラタサライ | イスタンブル | 17 | 19 | - | 17 | 19 | ||||
1956-57 | 29 | 26 | - | 29 | 26 | ||||||
1957-58 | 26 | 29 | - | 26 | 29 | ||||||
1958-59 | 16 | 22 | - | 16 | 22 | ||||||
1959 | 1部 | 15 | 11 | - | 15 | 11 | |||||
1959-60 | 33 | 33 | - | 33 | 33 | ||||||
1960-61 | 30 | 36 | - | 30 | 36 | ||||||
イタリア | リーグ戦 | イタリア杯 | 期間通算 | ||||||||
1961-62 | パレルモ | セリエA | 12 | 3 | 0 | 0 | 12 | 3 | |||
トルコ | リーグ戦 | トルコ杯 | 期間通算 | ||||||||
1962-63 | ガラタサライ | 1部 | 26 | 38 | 7 | 4 | 33 | 42 | |||
1963-64 | 32 | 18 | 6 | 7 | 38 | 23 | |||||
1964-65 | 22 | 17 | 6 | 3 | 28 | 20 | |||||
1965-66 | 26 | 19 | 5 | 1 | 31 | 20 | |||||
1966-67 | 17 | 10 | 1 | 0 | 18 | 10 | |||||
1967-68 | 27 | 18 | 6 | 3 | 33 | 21 | |||||
1968-69 | 30 | 17 | 8 | 4 | 38 | 21 | |||||
通算 | トルコ | 1部 | 258 | 217 | 39 | 22 | 297 | 239 | |||
トルコ | イズミル | 18 | 17 | - | 18 | 17 | |||||
トルコ | イスタンブル | 86 | 94 | - | 86 | 94 | |||||
イタリア | セリエA | 12 | 3 | 0 | 0 | 12 | 3 | ||||
総通算 | 374 | 331 | 39 | 22 | 413 | 353 |
参考文献
[編集]- ^ a b c “Metin Oktay - Taçsız Kral (The Uncrowned King)”. Turkish Football (13 September 2012). 24 October 2013時点のオリジナルよりアーカイブ。13 September 2013閲覧。
- ^ “トルコ - ポルトガル”. transfermarkt. 22 May 2022閲覧。
- ^ Galatasaray: Futbolda Dünya Markası, Oygur Yamak, Sinerji Yayınları (2001)
- ^ Galatasaray Spor Kulübü Tarihi, Ahmet Çakır, Demir Ajans (2001)
外部リンク
[編集]- メティン・オクタイ - National-Football-Teams.com
- メティン・オクタイ - FootballDatabase.eu
- メティン・オクタイ - WorldFootball.net
- メティン・オクタイ - Transfermarkt.comによる選手データ
- メティン・オクタイ - トルコサッカー連盟 (player)
- メティン・オクタイ - Mackolik.com