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メティン・オクタイ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
メティン・オクタイ
名前
愛称 無冠の帝王
ラテン文字 Metin Oktay
基本情報
国籍 トルコの旗 トルコ
生年月日 (1936-02-02) 1936年2月2日
出身地 イズミル県カルスヤカ
没年月日 (1991-09-13) 1991年9月13日(55歳没)
身長 177cm
選手情報
ポジション FW(CF)
ユース
1952-1953 トルコの旗 ダムラツクスポル
1953-1954 トルコの旗 ユン・メンスカト
クラブ1
クラブ 出場 (得点)
1954-1955 トルコの旗 イズミルスポル 18 (17)
1955-1961 トルコの旗 ガラタサライ 164 (174)
1961-1962 イタリアの旗 パレルモ 12 (3)
1962-1969 トルコの旗 ガラタサライ 180 (137)
代表歴
1954  トルコ U-18 4 (3)
1955-1968  トルコ 36 (19)
監督歴
1970 トルコの旗 ガラタサライ
1972 トルコの旗 ブルサスポル
1. 国内リーグ戦に限る。
■テンプレート■ノート ■解説■サッカー選手pj

メティン・オクタイトルコ語: Metin Oktay1936年2月2日 - 1991年9月13日)は、トルコの元サッカー選手。元トルコ代表。ポジションはFW

選手初年度から5年連続で地域リーグの得点王に輝き、その翌年に発足したトルコ全国1部リーグでも3年連続、合計6回得点王に輝いたトルコサッカー史に残るストライカーである。サッカー選手としての殆どをガラタサライで過ごし、1966-67シーズンを除く13シーズンではクラブで一番の点取り屋であったが、リーグ制覇は4回に止まったため、ガラタサライのファンからは無冠の帝王(Taçsız Kral)と呼ばれていた。

クラブ歴

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1936年2月2日、イズミル県カルスヤカの生まれ[1]。父は工場労働者、母は主婦であった[1]

1952年にダムラツクスポル、翌年にユン・メンスカトに所属した。1954年にアンダー代表に招集されると、同年にイズミルスポルに完全移籍し選手となった。選手初年度からイズミル・フットゥボル・リギで17得点を記録しリーグ得点王に輝いた。

翌1955年にギュンデュズ・クルチの誘いでイスタンブル・フットゥボル・リギ所属のガラタサライに完全移籍。19歳ながらシボレーの車と引き換えに5年契約を締結した。初年度から19得点をあげて得点王に輝くと、その後リーグ解消までの4年間得点王で在り続けた。1959年に全国リーグが発足してもそれは変わらなかった。1960年にはクラブ史上初の大型契約で契約更新、これと引き換えに彼は、イズミルスポルに戻ってプレーしてほしかった妻と離婚した。同年12月のフェネルバフチェSK戦では4得点を記録し5-0の大勝の立役者になると、ライバル相手に大勝を齎した彼に対して専用の応援歌が作られ、さらに現役であるにも関わらず半生を辿る映画まで作られた。

1961-62シーズンにはUSチッタ・ディ・パレルモに在籍したが、12試合3得点と揮わず、1シーズンでガラタサライに帰還した。

復帰した1962-63シーズンも得点王となったが、翌シーズンはイタリア時代を除くと初めて得点王を逃した。それでも翌1964-65シーズンに再び得点王に輝いた。1966-67シーズンにはクラブ内の得点王もアイハン・エルマスタショールに譲ったが、1968-69シーズンに再びリーグ得点王に輝いた。この全国リーグ6回目、累計11回目の得点王の獲得とともに引退した。

選手としては全国1部だけで累計217得点を記録し、この記録はタンジュ・チョラクが破るまで史上最多記録であった。また、ダービーマッチに強い選手としても知られ、フェネルバフチェ相手に累計18得点、特に1959年の試合でゴールネットに穴を開けたゴールはサポーターの間で語り継がれている。まあ、ベシクタシュJK相手にも累計13得点を記録している。

代表歴

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1954年にアンダー代表としての出場経験がある。

1955年12月18日のポルトガル代表との親善試合でA代表初出場を記録した[2]。トルコ代表としては累計36試合19得点の記録を有している。

選手引退後

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引退後はそのままガラタサライでアシスタントコーチに就任。同シーズンにトップチームの監督も務めた[3]。その後、ブルサスポルの監督も経験した[4]

1991年9月13日、イスタンブールで交通事故のため、死亡した[1]

功績

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彼の命日である9月13日には、イスタンブールにある彼の墓にガラタサライサポーターが毎年集まって追悼する文化が根付いている。また、ガラタサライの練習施設名はフロルヤ・メティン・オクタイ・テシスレリであり、彼の名前がつけられている。

個人成績

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太字は得点王を表している。

国内大会個人成績
年度クラブ背番号リーグ リーグ戦 リーグ杯 期間通算
出場得点 出場得点 出場得点
トルコ リーグ戦 トルコ杯 期間通算
1954-55 イズミルスポル イズミル 18 17 - 18 17
1955-56 ガラタサライ イスタンブル 17 19 - 17 19
1956-57 29 26 - 29 26
1957-58 26 29 - 26 29
1958-59 16 22 - 16 22
1959 1部 15 11 - 15 11
1959-60 33 33 - 33 33
1960-61 30 36 - 30 36
イタリア リーグ戦 イタリア杯 期間通算
1961-62 パレルモ セリエA 12 3 0 0 12 3
トルコ リーグ戦 トルコ杯 期間通算
1962-63 ガラタサライ 1部 26 38 7 4 33 42
1963-64 32 18 6 7 38 23
1964-65 22 17 6 3 28 20
1965-66 26 19 5 1 31 20
1966-67 17 10 1 0 18 10
1967-68 27 18 6 3 33 21
1968-69 30 17 8 4 38 21
通算 トルコ 1部 258 217 39 22 297 239
トルコ イズミル 18 17 - 18 17
トルコ イスタンブル 86 94 - 86 94
イタリア セリエA 12 3 0 0 12 3
総通算 374 331 39 22 413 353

参考文献

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  1. ^ a b c Metin Oktay - Taçsız Kral (The Uncrowned King)”. Turkish Football (13 September 2012). 24 October 2013時点のオリジナルよりアーカイブ。13 September 2013閲覧。
  2. ^ トルコ - ポルトガル”. transfermarkt. 22 May 2022閲覧。
  3. ^ Galatasaray: Futbolda Dünya Markası, Oygur Yamak, Sinerji Yayınları (2001)
  4. ^ Galatasaray Spor Kulübü Tarihi, Ahmet Çakır, Demir Ajans (2001)

外部リンク

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