メヒティルト・フォン・ナッサウ
メヒティルト・フォン・ナッサウ Mechthild von Nassau | |
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クラレンタール修道院のメヒティルトの墓 | |
出生 |
1280年以前 |
死去 |
1323年6月19日 神聖ローマ帝国 ライン宮中伯領、ハイデルベルク |
埋葬 |
神聖ローマ帝国 ナッサウ伯領、クラレンタール修道院 |
配偶者 | 上バイエルン公・ライン宮中伯ルドルフ1世 |
子女 |
ルートヴィヒ アドルフ ルドルフ2世 ループレヒト1世 マティルデ アンナ |
家名 | ナッサウ家 |
父親 | ローマ王アドルフ |
母親 | イマーギナ・フォン・イーゼンブルク=リンブルク |
メヒティルト・フォン・ナッサウ(ドイツ語:Mechthild von Nassau, 1280年以前 - 1323年6月19日)は、上バイエルン公・ライン宮中伯ルドルフ1世の妃。
生涯
[編集]メヒティルトはローマ王アドルフとイマーギナ・フォン・イーゼンブルク=リンブルクの間に生まれた[1]。両親の間には少なくとも8子が生まれたが、メヒティルトと4人のきょうだいのみが成人した。
夫ルドルフ1世は1294年に父の跡を継ぎ、義父アドルフを支持し、叔父であるハプスブルク家のアルブレヒト1世と対立した。アドルフの死後、ルドルフ1世はアルブレヒト1世に従ったが、新王の強力な王朝政策が新たな争いを引き起こした。ルドルフの母マティルデ・フォン・ハプスブルクは、息子ルドルフともう一人の息子で、後に神聖ローマ皇帝となるルートヴィヒ4世の摂政を務めた。バイエルン分割に関する新たな対立に起因するルートヴィヒ4世との内戦は1313年に終結し、ミュンヘンで和平が結ばれた。ルドルフは1319年にイングランドで死去した。
神聖ローマ皇帝ルートヴィヒ4世は武力でプファルツを占領した。1322年8月、戦争はついに終結したが、1323年6月にメヒティルトが亡くなり、ようやくメヒティルトの3人の息子たちは叔父ルートヴィヒ4世と和解することができた。ルートヴィヒ4世の息子たちはバイエルンを相続し、ルドルフとメヒティルトの息子たちはパヴィア条約(1329年)にもとづいて上プファルツ領とプファルツ領を相続した。
メヒティルトは1323年6月19日にハイデルベルクで死去し、クラレンタール修道院に埋葬された。
結婚と子女
[編集]1294年9月1日にニュルンベルクにおいて上バイエルン公・ライン宮中伯ルドルフ1世と結婚した[2]。イーゼンブルク=リンブルク伯ヨハン1世が最終的に合意をとりつけた。この結婚で以下の子女が生まれた。
- ルートヴィヒ(1297年 - 1311年)
- アドルフ(1300年 - 1327年)[2] - ライン宮中伯
- ルドルフ2世(1306年 - 1353年) - ライン宮中伯
- ループレヒト1世(1309年 - 1390年) - ライン宮中伯、のちプファルツ選帝侯
- マティルデ(1312年 - 1375年11月25日) - 1330/1年にシュポンハイム伯ヨハン3世と結婚
- アンナ(1318年 - 1319年)
脚注
[編集]- ^ Herde 2000, p. 516-517.
- ^ a b Thomas 2010, Appendix A.
参考文献
[編集]- Herde, Peter (2000). “From Adolf of Nassau to Lewis of Bavaria, 1292-1347”. In Jones, Michael. The New Cambridge Medieval History: c. 1300-c. 1415. VI. Cambridge University Press
- Thomas, Andrew L. (2010). A House Divided: Wittelsbach Confessional Court Cultures in the Holy Roman Empire, 1550-1650. Brill
- Jakob Wille (1889). "Rudolf I. (Pfalzgraf bei Rhein)". Allgemeine Deutsche Biographie (ドイツ語). Vol. 29. Leipzig: Duncker & Humblot. pp. 548–551.