モデスト・エムバミ
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マルセイユでのエムバミ | ||||||||||||||
名前 | ||||||||||||||
ラテン文字 | Modeste M'bami | |||||||||||||
基本情報 | ||||||||||||||
国籍 | カメルーン | |||||||||||||
生年月日 |
1982年10月9日 カメルーン・ヤウンデ | |||||||||||||
没年月日 |
2023年1月7日(40歳没) フランス・ノルマンディー地域圏 セーヌ=マリティーム県 ル・アーヴル | |||||||||||||
身長 | 172cm | |||||||||||||
体重 | 67kg | |||||||||||||
選手情報 | ||||||||||||||
ポジション | MF (DH) | |||||||||||||
利き足 | 右足 | |||||||||||||
ユース | ||||||||||||||
1999-2000 | ディナモ・ドゥアラ | |||||||||||||
クラブ1 | ||||||||||||||
年 | クラブ | 出場 | (得点) | |||||||||||
2000-2003 | スダン | 68 | (0) | |||||||||||
2003-2006 | パリ・サンジェルマン | 83 | (1) | |||||||||||
2006-2009 | マルセイユ | 77 | (1) | |||||||||||
2009-2011 | アルメリア | 58 | (1) | |||||||||||
2011-2012 | 大連阿爾濱 | 0 | (0) | |||||||||||
2011 | → 長春亜泰 (loan) | 15 | (3) | |||||||||||
2012-2013 | アル・イテハド | 20 | (0) | |||||||||||
2014 | ミジョナリオス | 14 | (0) | |||||||||||
2014-2015 | ル・アーヴル | 8 | (0) | |||||||||||
通算 | 343 | (6) | ||||||||||||
代表歴 | ||||||||||||||
2000-2009 | カメルーン | 37 | (3) | |||||||||||
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1. 国内リーグ戦に限る。 ■テンプレート(■ノート ■解説)■サッカー選手pj |
モデスト・エムバミ(Modeste M'bami, 1982年10月9日 - 2023年1月7日)は、カメルーン・ヤウンデ出身の元サッカー選手。元同国代表。現役時代のポジションはMF。
経歴
[編集]クラブ
[編集]初期
[編集]エムバミは、14歳の時にカジ・スポーツアカデミーが主催する大会で活躍したことで元カメルーン代表のミシェル・カムに見出され、同クラブで訓練を受けた[1]。その後、ディナモ・ドゥアラに参加し[1]、2000年夏にCSスダン・アルデンヌに移籍した。まだ、若手ながら1年目からリーグ・アンの舞台で10試合に出場し、チームの5位に貢献。翌シーズンから2年の間にレギュラーを務め60試合に出場したが、2003年にリーグ・ドゥに降格。その後、ウルヴァーハンプトン・ワンダラーズFCと4年契約で一旦合意したものの、代理人がそれを翻し、最終的にパリ・サンジェルマンFCへ5年契約で加入した[2]。
パリ・サンジェルマン
[編集]パリ・サンジェルマンでの1年目は、リーグ戦2位、クープ・ドゥ・フランス戦で優勝と非常に良いシーズンを迎える中で経験はまだ乏しかったものの、ヴァイッド・ハリルホジッチ監督の素晴らしい指導を受け、別の若手守備的MFロリック・カナと共に中盤を形成し、チームに大きく貢献した。しかし、翌シーズンは、チーム事情の悪さから1月の移籍市場での移籍を望んでいた[3] が、UEFAチャンピオンズリーグ 2004-05のPFC CSKAモスクワ戦で試合開始早々にイジー・ヤロシークのタックルを受けたことで3ヶ月の離脱を余儀なくされ[4]、その願いは叶わずに残留となった。2005-06シーズンは、レギュラーを奪取し再びクープ・ドゥ・フランス優勝に貢献した。
マルセイユ
[編集]2006年8月に3年過ごしたパリ・サンジェルマンに別れを告げると、ライバルのオリンピック・マルセイユと移籍金250万・3年契約で加入し、前シーズンに加入していたロリック・カナと再びコンビを組むこととなった[5]。マルセイユは、近年ライバルのパリ・サンジェルマンから2004年夏に副主将のフレデリック・デウとファブリス・フィオレーズの獲得を成功させると、2005年にロリック・カナ、そして2006年夏にエムバミと立て続けに4人もの選手を補強させていた。
マルセイユでは1年目からレギュラーとしてプレーし、トロワAC戦で決勝点を挙げる活躍を見せたことでサポーターの人気を集めた。2年目は、ジュリアン・ロドリゲズの度重なる負傷とガエル・ジヴェのパフォーマンスの低下からカナがCB、ベノワ・シェイルが左サイドに移ったことで、エリック・ゲレツ監督が就任してからも主力の1人としてプレーし、UEFAカップ 2007-08・FCゼニト・サンクトペテルブルクとの第1戦では、パスの出し手として高い技術を披露した。マルセイユで浮き沈みのある3シーズンを過ごしながらも活躍していたが、シーズン終了後は、契約満了と新たに就任したディディエ・デシャン監督の構想外となり退団した。その後、同じくフリーエージェントとなった同僚のタイエ・タイウォと共にプレミアリーグへの移籍を模索し始め[6]、ポーツマスFC、ボルトン・ワンダラーズFC、ウルヴァーハンプトン・ワンダラーズ、ウィガン・アスレティックFCと次々とプレミアリーグのクラブのトライアルに参加[7] し、ウィガンでは、短期ながら契約の申し出があったもののそれを拒否する[8] と、2009年9月30日にスペインのUDアルメリアのトライアルを経て、同クラブと契約した[9]。
その後
[編集]2011年7月、フアニートと共にアルメリアから放出されたエムバミは、中国2部の大連阿爾濱足球倶楽部に加入すると、すぐさま同国1部の長春亜泰足球倶楽部に貸し出された。しかし、2012年に大連阿爾濱へ復帰するも外国人枠の関係からプレーすることは出来ず[10]、同年8月1日にサウジアラビアのアル・イテハドへ2年契約で移籍した[11]。
代表
[編集]ユース時代は、1999年4月に開催された1999 FIFAワールドユース選手権に出場し、ベスト16に進出。ベスト16のU-20マリ戦で得点を挙げたが、4-5で敗退した。翌年のシドニーオリンピックでチームは優勝した際に決勝戦でエムバミの出番は無かったが、準々決勝・ブラジル戦でゴールデンゴールを決めるなど活躍した。
A代表としては、2000年6月18日のリビア戦で初招集され、FIFAコンフェデレーションズカップ2003で準優勝した。しかし、翌年11月11日にヴィンフリート・シェーファー監督の戦術を批難し、代表引退を表明していた[13]。その後、シェーファー監督の解任に伴い代表復帰し、2006 FIFAワールドカップ・アフリカ予選のメンバーとして戦っていたが、チームはコートジボワールと勝ち点差1で本大会行きを逃した。
タイトル
[編集]代表
[編集]クラブ
[編集]- クープ・ドゥ・フランス : 2004, 2006
- サウジ国王杯 : 2013
脚注
[編集]- ^ a b "L'émouvante confession de Modeste M'Bami"
- ^ "PSG grab M'Bami"
- ^ "Mbami seeks move from PSG"
- ^ "PSG、エムバミが戦線離脱"
- ^ "M'Bami set for Marseille"
- ^ "タイウォと共にプレミアを目指すエムバミ"
- ^ "Portsmouth set to snare Modeste M'Bami"
- ^ "Roberto Martínez rules out Wigan deal for Modeste Mbami"
- ^ "M'Bami nach Spanien"
- ^ "大连阿尔滨开始人员调整 三人将离队回收姆巴米"
- ^ "M'Bami à Al Ittihad"
- ^ “元カメルーン代表MFエムバミが40歳で死去…2000年シドニー五輪で金メダル獲得”. Goal.com (2023年1月8日). 2023年1月8日閲覧。
- ^ "Mbami quits Cameroon"
外部リンク
[編集]- transfermarkt
- footballzz
- モデスト・エムバミ - Soccerwayによる個人成績
- モデスト・エムバミ - National-Football-Teams.com