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モンタギュー・ヴェナブルズ=バーティー (第2代アビンドン伯爵)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

第2代アビンドン伯爵モンタギュー・ヴェナブルズ=バーティー英語: Montagu Venables-Bertie, 2nd Earl of Abingdon PC1673年2月4日1743年6月16日)は、イギリスの貴族。1682年までモンタギュー・バーティー閣下儀礼称号を、1682年から1699年までノリーズ卿の儀礼称号を使用した。

生涯

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初代アビンドン伯爵ジェームズ・バーティー英語版と1人目の妻エレノーラ・リー(Eleanora Lee、1658年6月3日洗礼 – 1691年5月31日、第3代準男爵サー・ヘンリー・リーの娘)の長男として生まれた[1]。1685年のモンマスの反乱が勃発した時点では未成年だったが、オックスフォード大学クライスト・チャーチから招集された民兵隊に入隊した[2]。その後、父の影響力により1686年にウッドストック英語版の自由民(freeman)と町議会議員(common councilman)になり、1687年にはオックスフォードの自由民になった。1687年9月22日にピーター・ヴェナブルズ(Peter Venables、1679年没)の娘アン(1715年4月28日没)と結婚、11月10日にヴェナブルズを姓に加えた。続く1689年イングランド総選挙ではまだ被選挙権のない年齢だったもののバークシャー選挙区英語版で当選、同年より1701年までオックスフォードの執行吏とオックスフォードシャー副統監を務めた[3]

総選挙により成立した仮議会の記録ではモンタギューの名前がたびたび現れた。彼は家族と同じくトーリー党員であり、ジェームズ2世が逃亡した後も王位が空位になっていないとの貴族院の主張に賛成票を投じた。それ以外にもいくつかの庶民院委員会に加入し、5月には叔父ヘンリー・バーティー英語版サー・ウィリアム・ハーボード英語版の争いについて発言した[3]

1690年イングランド総選挙で再びバークシャー選挙区から出馬しようとしたものの、第3代ラブレス男爵英語版ホイッグ党リチャード・ネヴィル英語版を推したため、モンタギューは代わりにオックスフォードシャー選挙区英語版から出馬した[3]。このとき、バークシャー選挙区にはすでに第2代準男爵サー・ヘンリー・ウィンチコンブ第2代準男爵サー・ハンフリー・フォースター英語版とトーリー党員が2人出馬していたため、モンタギューはバークシャー選挙区での選挙活動を諦めたのであった[4]。オックスフォードシャーでの選挙活動は辛辣なものであり、モンタギューらは父子ともにジャコバイトとの疑いがもたれたが、結果はモンタギューと第2代準男爵サー・ロバート・ジェンキンソンが大差でホイッグ党の候補である第5代準男爵サー・ジョン・コープ初代準男爵サー・トマス・ウィートに勝利した[5]。その後は1690年から1699年までオックスフォードシャーの庶民院議員を務め[6]、1699年5月22日に父が死去するとアビンドン伯爵の爵位を継承した[1]

アン女王の治世では1702年4月21日にイングランド枢密院英語版の枢密顧問官に任命され[6]、1702年から1705年までロンドン塔管理長官英語版タワー・ハムレッツ統監英語版オックスフォードシャー統監英語版を務めたが、1705年イングランド総選挙でホイッグ党が政権を握ると、1705年10月にすべての官職から解任され、1707年5月には枢密顧問官からも解任された[6]。トーリー党が政権に返り咲くと、1711年から1715年まで南トレント巡回裁判官英語版を、1712年から1715年までオックスフォードシャー統監を務め、グレートブリテン枢密顧問官にも任命された[7]

ジョージ1世が即位したときはハノーヴァー朝を支持してグレートブリテン枢密顧問官を再任したが、すぐに野党に転じて1716年の七年議会法英語版に反対、ロバート・ウォルポールとも敵対した[6]

1743年6月16日に死去、27日にライコート英語版で埋葬された。爵位は弟ジェームズ英語版の息子ウィラビーが継承した[7]

家族

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1687年9月22日にピーター・ヴェナブルズ(Peter Venables、1679年没)の娘アン・ヴェナブルズと結婚した[1]。アン・ヴェナブルズは1702年5月12日から1705年11月までアン女王寝室女官英語版を務めた後に辞任したが、1712年1月に再び寝室女官に任命され、1714年にアン女王が死去するまで務めた[8]。アンは1715年4月28日に死去、ライコート英語版で埋葬された[7]

1717年2月13日、ビーコンズフィールド英語版でメアリー・ゴールド(Mary Gould、1757年1月7日埋葬、ジェームズ・ゴールド英語版の娘)と再婚、下記の子女を儲けた[7]

  • ジェームズ(1717年11月14日 – 1718年2月25日) - 天然痘により病死

領地では1702年に第3代準男爵サー・ジョン・ウォルター英語版からゴッドストー英語版を購入したが、1710年に初代マールバラ公爵ジョン・チャーチルに売却した(マールバラ公爵は同時にウォルターからウルヴァーコート英語版を購入した)[9]。1703年から1704年にはすでに所有していたウェスト・ラヴィントン英語版の領地と隣接するリトルトン・アウンセルス(Littleton Auncells)の領地をジョージ・ボウディッチ(George Bowditch)とジェームズ・タウンゼンド(James Townsend)から購入した[10]。また、1738年までにウィルトシャーのブラデンストーク英語版をジャーマニカス・シェパード(Germanicus Sheppard)に売却した[11]

出典

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  1. ^ a b c Cokayne, George Edward; Gibbs, Vicary, eds. (1910). Complete peerage of England, Scotland, Ireland, Great Britain and the United Kingdom, extant, extinct or dormant (Ab-Adam to Basing) (英語). Vol. 1 (2nd ed.). London: The St. Catherine Press, Ltd. pp. 46–47.
  2. ^ Clark, Andrew (1894). The Life and Times of Anthony Wood, antiquary, of Oxford, 1632–1695, described by Himself (英語). Vol. III: 1682–1695. Oxford: Clarendon Press. pp. 148–149.
  3. ^ a b c Naylor, Leonard; Jaggar, Geoffrey (1983). "VENABLES-BERTIE (formerly BERTIE), Montagu, Lord Norreys of Rycote (1673-1743).". In Henning, B. D. (ed.). The House of Commons 1660-1690 (英語). The History of Parliament Trust.
  4. ^ Handley, Stuart (2002). "Berkshire". In Hayton, David; Cruickshanks, Eveline; Handley, Stuart (eds.). The House of Commons 1690-1715 (英語). The History of Parliament Trust.
  5. ^ Hanham, Andrew A. (2002). "Oxfordshire". In Hayton, David; Cruickshanks, Eveline; Handley, Stuart (eds.). The House of Commons 1690-1715 (英語). The History of Parliament Trust.
  6. ^ a b c d Watson, Paula; Gauci, Perry (2002). "VENABLES-BERTIE (formerly BERTIE), Montagu, Lord Norreys (1673-1743), of Rycote, Oxon.". In Hayton, David; Cruickshanks, Eveline; Handley, Stuart (eds.). The House of Commons 1690-1715 (英語). The History of Parliament Trust. 2019年7月29日閲覧
  7. ^ a b c d Cokayne, George E. (1910). Gibbs, Vicary. ed. The complete peerage of England, Scotland, Ireland, Great Britain and the United Kingdom, extant, extinct, or dormant. I, Ab-Adam to Basing. London: St. Catherine Press. pp. 46–47. https://babel.hathitrust.org/cgi/pt?id=mdp.39015066332571;view=1up;seq=92 
  8. ^ Bucholz, Robert. "The bedchamber: Ladies of the Bedchamber" (PDF) (英語). Loyola University of Chicago. p. 20. 2010年11月5日閲覧
  9. ^ Baggs, A P; Blair, W J; Chance, Eleanor; Colvin, Christina; Cooper, Janet; Day, C J; Selwyn, Nesta; Townley, S C (1990). "Wolvercote: Manors and other estates". In Crossley, Alan; Elrington, C R (eds.). A History of the County of Oxford (英語). Vol. 12, Wootton Hundred (southern) including Woodstock. London: Victoria County History. pp. 313–314.
  10. ^ Chettle, H F; Powell, W R; Spalding, P A; Tillott, P M (1953). "Parishes: West or Bishop's Lavington". In Pugh, R B; Crittall, Elizabeth (eds.). A History of the County of Wiltshire (英語). Vol. 7. London: Victoria County History. pp. 198–206. 2016年1月31日閲覧
  11. ^ Dunning, R W; Rogers, K H; Spalding, P A; Shrimpton, Colin; Stevenson, Janet H; Tomlinson, Margaret (1970). "Parishes: Lyneham". In Crittall, Elizabeth (ed.). A History of the County of Wiltshire (英語). Vol. 9. London: Victoria County History. pp. 90–104.
イングランド議会 (en
先代
リチャード・サウスビー英語版
サー・ハンフリー・フォースター準男爵英語版
庶民院議員(バークシャー選挙区英語版選出)
1689年 – 1690年
同職:サー・ヘンリー・ウィンチコンブ準男爵
次代
サー・ヘンリー・ウィンチコンブ準男爵
サー・ハンフリー・フォースター準男爵英語版
先代
サー・ロバート・ジェンキンソン準男爵
サー・ジョン・コープ準男爵
庶民院議員(オックスフォードシャー選挙区英語版選出)
1690年 – 1699年
同職:サー・ロバート・ジェンキンソン準男爵
次代
サー・ロバート・ジェンキンソン準男爵
サー・ロバート・ダッシュウッド準男爵英語版
司法職
先代
ウォートン伯爵
巡回裁判官英語版
南トレント

1711年 – 1715年
次代
オッスルストン男爵
名誉職
先代
ノーフォーク公爵
バークシャー統監英語版
1701年 – 1702年
次代
クレイヴェン男爵英語版
先代
ルーカス男爵英語版
ロンドン塔管理長官英語版
1702年 – 1705年
次代
エセックス伯爵英語版
タワー・ハムレッツ統監英語版
1702年 – 1705年
先代
ウォートン男爵
オックスフォードシャー統監英語版
1702年 – 1706年
次代
マールバラ公爵
先代
マールバラ公爵
オックスフォードシャー統監英語版
1712年 – 1715年
次代
ゴドルフィン伯爵
イングランドの爵位
先代
ジェームズ・バーティー英語版
アビンドン伯爵
1699年 – 1743年
次代
ウィラビー・バーティー