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ヤドランカ・コソル

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
ヤドランカ・コソル
Jadranka Kosor
ヤドランカ・コソル(2011年5月)
生年月日 (1953-07-01) 1953年7月1日(71歳)
出生地 ユーゴスラビア社会主義連邦共和国の旗 ユーゴスラビア
クロアチア社会主義共和国パクラツ
出身校 ザグレブ大学
前職 ジャーナリスト
所属政党 クロアチア民主同盟→無所属
サイン

在任期間 2009年7月4日 - 2012年3月21日
後任者 トミスラヴ・カラマルコ

在任期間 2009年7月6日 - 2011年12月23日
大統領 スティエパン・メシッチ
イヴォ・ヨシポヴィッチ

クロアチアの旗 クロアチア共和国副首相
在任期間 2003年 - 2009年
大統領 スティエパン・メシッチ

クロアチアの旗 クロアチア共和国
家庭・退役軍人・世代間連携大臣
在任期間 2003年 - 2009年
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ヤドランカ・ヴライサヴリェヴィッチ=コソルクロアチア語: Jadranka Vlaisavljević-Kosor、発音:/ˈjadranka ˈkɔsɔr/1953年7月1日 - )は、パクラツ出身のクロアチアの政治家であり、元ジャーナリストである。2009年7月にクロアチアの首相イーヴォ・サナデルが辞任したことにより、同国で初めての女性首相となった[1]

生い立ち

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ヤドランカ・ヴライサヴリェヴィッチとして、クロアチア東部のパクラツ英語版に生まれ、リピクの小学校を卒業した。その後ザグレブに移って法学を学び、1972年からジャーナリストとなり、ヴェチェルニ・リスト英語版ザグレブ・ラジオ英語版Radio stanica Zagreb)の特派員として働いた。1971年、詩集「コラツィ」がマティツァ・フルヴァツカ英語版のパクラツ支部から発行された[2]クロアチア紛争の間、ラジオのジャーナリストとして、難民傷痍軍人などの戦争に関する話題を番組で取り上げた[3]。またこの間、一時的に英国放送協会の特派員も務めた。その紛争に関する仕事に対してクロアチア・ジャーナリスト協会や欧州共同体から表彰を受けた[3]

コソルは、2つの詩集と2つのクロアチア紛争に関する書籍を出版している。1人の息子を持ち、また英語を流暢に話す。

政治

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1995年クロアチア民主同盟(HDZ)の一員としてクロアチア議会の議員となった。また、クロアチア議会の副議長も務めた。1999年から2000年までHDZのカタリナ・ズリンスキ女性協会の会長も務めた。コソルは2000年クロアチア総選挙英語版においてHDZの女性候補者数を2倍に増やした[4]

コソルは1995年から1997年、2002年から2009年までHDZの副党首を務めた。また、2003年からはイーヴォ・サナデル内閣で副首相、家庭、退役軍人、世代間連携大臣となった[3]2005年クロアチア大統領選挙英語版でHDZはコソルを大統領候補とした[3]。第1回の投票では3位のボリス・ミクシッチ英語版を僅差で下して第2回投票に進んだが、第2回投票ではスティエパン・メシッチに破れた。

2009年7月、イーヴォ・サナデルが首相およびHDZ党首を辞職したことに伴い、その後任としてHDZの党首となった[5]

2009年7月1日、クロアチア首相のイーヴォ・サナデルが辞職し、後任にコソルを指名した[6]7月6日クロアチア議会はコソルの首相就任を賛成多数で承認し、コソルはクロアチア初の女性首相となった[7]。2011年12月4日に行われた下院選挙では野党連合に敗北し[8]、同年12月23日に首相を退任した[9]

外交

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2008年北京パラリンピックの開会式に出席するために中華人民共和国北京を訪れ、胡錦濤主席と会談した[10]

脚注

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外部リンク

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公職
先代
イーヴォ・サナデル
クロアチアの旗 クロアチア共和国首相
第9代:2009年 - 2011年
次代
ゾラン・ミラノヴィッチ
党職
先代
イーヴォ・サナデル
クロアチア民主同盟党首
2009年 - 2012年
次代
トミスラヴ・カラマルコ英語版
先代
ゾラン・ミラノヴィッチ
クロアチア野党連合指導者
2011年 - 2012年
次代
トミスラヴ・カラマルコ英語版