ヤロスラフ・ムスチスラヴィチ
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ヤロスラフ・ムスチスラヴィチ Ярослав Мстиславич | |
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ノヴゴロド公 ペレヤスラヴリ・ザレスキー公 ヴォロコラムスク公 ペレヤスラヴリ公 | |
ヤロスラフ・ムスチスラヴィチの死 | |
在位 |
ノヴゴロド公:1176年 ペレヤスラヴリ・ザレスキー公:1176年 - 1187年 ヴォロコラムスク公:1177年 - 1178年 ペレヤスラヴリ公:1187年 - 1199年 |
死去 |
1199年 |
家名 | リューリク家 |
父親 | ノヴゴロド公ムスチスラフ・ユーリエヴィチ |
母親 | ピョートル・ミハイロヴィチの娘 |
ヤロスラフ・ムスチスラヴィチ(ロシア語: Ярослав Мстиславич、? - 1199年)は、ユーリー・ドルゴルーキーの孫、ムスチスラフ・ユーリエヴィチの子である。ノヴゴロド公:1176年、ペレヤスラヴリ・ザレスキー公:1176年 - 1187年、ヴォロコラムスク公:1177年 - 1178年、ペレヤスラヴリ公:1187年 - 1199年。通称クラスヌィー(ロシア語: Красный:赤いの意)。
生涯
[編集]1176年、ウラジーミル大公位におじのフセヴォロドが就くことが承認された後に、ノヴゴロドの人々は、ノヴゴロド公位にあったムスチスラフを追放し、ヤロスラフはノヴゴロド公となった。しかし翌年、リャザン公グレプの援助を得て、ムスチスラフは再びノヴゴロドへ帰還した。ヤロスラフはヴォロコラムスクへと去った。その翌年にはウラジーミル大公フセヴォロドの攻撃によってノヴゴロドは破壊されるが、その後もヤロスラフのノヴゴロド公位復帰はなく、ノヴゴロド公にはスモレンスク・ロスチスラヴィチ家[注 1]出身の人物が公となっている(1179年までロマン・ロスチスラヴィチ、1180年までムスチスラフ・ロスチスラヴィチ)。
1187年、甥のペレヤスラヴリ公ウラジーミルが子のないまま死亡した後、ヤロスラフはウラジーミル大公フセヴォロドによってペレヤスラヴリ公国へ送られ、1199年に死亡するまでペレヤスラヴリを統治した。ヤロスラフの死後すぐに、ペレヤスラヴリにはフセヴォロドの子のヤロスラフが配置された。
家族・子孫については不明である。
注釈
[編集]- ^ キエフ大公ロスチスラフ1世の子孫。1125年以降のスモレンスク公位を相続し続けた家系。詳しくはru:Мономаховичи#Ростиславичи参照。
参考文献
[編集]- ブロックハウス・エフロン百科事典、サンクトペテルブルク、1890年 - 1907年。