コンテンツにスキップ

英文维基 | 中文维基 | 日文维基 | 草榴社区

ユスポフ家

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
ユスポフ家の紋章、1799年

ユスポフ家ロシア語: Юсу́повы)は、ロシアの貴族ロシア帝国でも裕福で影響力のあった貴族で、ロマノフ家同様に莫大な財産を所有していたことで知られている。著名な人物にラスプーチン暗殺に関与したフェリックス・ユスポフ公がいる。

歴史

[編集]

起源

[編集]

ユスポフ家の起源は6世紀にまで遡り、イスラム教徒の最高指導者であるアブべキル・ベン・ライオック(Aboubekir ben Raioc)[注釈 1]によって創設されたとされている。アブべキルは、エミール・エル・オムラ(Emir el Omra)やカンなどの様々な称号を持ち、宗教的、政治的な権限を一体化させていた。また、アブべキルの子孫たちはエジプトアンティオキア、コンスタンティノプールにおいても同様に、最高権力を行使した。そのうちの数名はメッカに埋葬されたという[1]

14世紀、アブべキルの子孫の一人であるエディゲ[注釈 2]ティムール朝の建国者ティムールの遠征全てに参加し、ジョチ・ウルスのカンと戦った[1]

15世紀以降

[編集]

15世紀末、ムサ・ビーロシア語版[注釈 3]ノガイ・オルダの統治者となり、イヴァン3世と同盟を結んだ。ムサ・ビーの死後は、長男のサク・ママイが跡を継いだが、後にユスフロシア語版が跡を継ぐことになったという[2]

1533年、ユスフは娘スユンビケ英語版を当時のカザン=ハンであったジャン=アリ英語版と結婚させたが、ユスフはカザン・ハン国の派閥のうちクリム派を唆し、1535年にジャン=アリを殺害させた。その後、モスクワ派により追放されていたクリム派のハンであるサファ=ギレイ英語版がカザン・ハン国に戻ると、スユンビケはサファ=ギレイと結婚することになったが、1549年に2番目の夫が再び殺害され、1553年にシャー・アリ英語版と3度目の結婚をした[2][3][4]

1870年、ヴァシーリー・フデャコーフ作『カザンを去るスユンビケ』

しかし、すぐにシャー・アリはモスクワに避難せざるを得なくなり、その間スユンビケがカザン=ハン国を統治した。しかし、父ユスフとイヴァン雷帝との間で争いが勃発すると、ロシアによりカザンは包囲され、スユンビケは捕虜となる。スユンビケが捕虜として投獄されると、ユスフはイヴァン雷帝に娘と孫の釈放を要求した。しかし、ユスフはイヴァン雷帝が自身の懇願を全く気にとめなかったことに憤慨し、戦争を再開する準備していたという[5]

しかし、その最中の1555年、ユスフは兄イスマイルロシア語版によって暗殺され、イスマイルがノガイの統治者となる。4月、ユスフの息子たちはノガイ・オルダの有力者オラク[注釈 4]の息子カズ(又はカジ)やユヌス=ムルザ、アリ=ムルザと共にアストラハンを攻撃し、6月には宮帳を攻撃した上でイスマイルを追いやった[6]

17世紀以降

[編集]

ユスフの曾孫であるアブドゥル・ムルザは正教会へと改宗したことで、名をドミトリーと改め、ロシア・ツァーリ国ツァーリであるフョードルからユスポフ公の称号を授かった。また、ドミトリーは勇敢さで名高く、ポーランドとクリミア・ハン国に対するツァーリの遠征全てに参加した[7]

しかし、断食日にモスクワ府主教と食事をした際に、魚に見せかけたガチョウを給仕したため、財産を半分没収されたという。これに関して、ドミトリーの曾孫ニコライ・ボリソヴィチ公ロシア語版は、エカチェリーナ2世の客人として冬宮殿に招かれた際、ガチョウの切り分け方を知っているかどうか尋ねられ、「私たちの財産の半分を失わせた鳥について、どうして何も知らないでいられましょうか。」と答えたという[8][7]

ドミトリーの息子であるグレゴリー・ドミトリエヴィチ公ロシア語版は、ピョートル大帝の最も私的な顧問の一人であり、艦隊の再建や戦争だけでなく政治改革にも積極的に参加した[7]

ボリス・グリゴリエヴィチ公ロシア語版は、20歳の時にフランスに派遣され、海軍について研究し、皇帝の新しい顧問となった。女帝アンナの治世中には、モスクワ総督に任命され、女帝エリザヴェータの治世中には、帝国学校の校長を務めた。また、ラドガ湖ドン川オカ川の間に河川航行システムを作り上げた[9]

ニコライ・ボリソヴィチ公ロシア語版は、エカチェリーナ2世やパーヴェル1世アレクサンドル1世ニコライ1世の友人であり、顧問であった。1798年には、マルタ騎士団の最高司令官に任命された。また、ニコライ公は、ロシア国外で多くの時間を過ごしていたこともあり、多くの著名な人物と交流を深めた。その中でも著名なのに、ルイ16世マリー・アントワネット、プロイセン王フリードリヒ2世、オーストリア皇帝ヨーゼフ2世がいる[10][注釈 5]

19世紀以降

[編集]

ニコライ・ボリソヴィチ公ロシア語版は、露土戦争の際、軍に病院列車を提供するなど、慈善活動や福祉活動に関心を持っていた。しかし、慈善活動には惜しみなく資金を援助するのに対し、日常生活における出費には厳しく、けちで節約家であったという[11][注釈 6]

父フェリックス、下段左からニコライ、ジナイダ、フェリックス

ニコライ公の長女で、ユスポフ家の女性相続人となったジナイダ・ユスポヴァ公女は、1882年にフェリックス・スマローコフ=エルストン伯爵と結婚した。[12]

ジナイダは、1903年に開催された舞踏会でニコライ2世からロシアの国民的舞踏を演じるよう頼まれたところ、即興で踊り、5回のカーテンコールを受けるなどダンスの才に恵まれていた。また、スペイン王女エウラリアは、ロシアを訪れた際、ジナイダが開いたレセプションに参加し、感銘を受けたという[13]

1917年、 宮廷歯科医Kastritzkyによって、ニコライ2世からジナイダに向けて、「ユスポフ公女に会ったら、彼女がいかに正しかったか、今になって気づいたと伝えてほしい。私が彼女の言うことを聞いていたら、多くの悲劇的な出来事を防ぐことができたかもしれない。」という最後の言葉を伝えられたという[13]

左からフェリックス、イリナ、娘イリナ

1914年フェリックス・ユスポフはニコライ2世の姪イリナ・アレクサンドロヴナ公女と結婚した[12]。結婚式はアニチコフ宮殿で行われ、イリナはマリー・アントワネットのヴェールとカルティエのティアラを身につけた。ロシア革命が勃発すると、ユスポフ夫妻は、イギリス国王ジョージ5世が派遣した戦艦マールバラに他の皇族と共に乗船した。戦艦は1919年4月11日にセヴァストポリからコンスタンティノープルに向けて出発し、夫妻はフランスに亡命した[14]

ユスポフ家の他に、同じエディゲを祖とするウルソフ家ロシア語版(イスマイルの子ウルスが始祖)とバイテレコフ家ロシア語版(イスマイルの子バイテレクが始祖)が存在する[15]。うちウルソフ家は現在も存続している。

ユスポフ家のコレクション

[編集]

1925年、モイカ宮殿の秘密金庫でユスポフ家が所有していた宝飾品の多くが発見され、国家銀行とクレムリン武器庫博物館英語版に分配され、一部の宝飾品は売却された。秘密金庫には、1t以上の銀と13kgの金、古いカップやゴブレット、200個の銀のショットグラス、3つの銀の白鳥、255個のブローチ、42個のブレスレット、12個のティアラなど、合計210kgの宝飾品が革命時にフェリックス・ユスポフ公によって隠されていたという[16]

ラ・ペレグリナ・パールを身につけたジナイダの肖像画

宝飾品の中でも著名なものに、「ラ・ペレグリナ・パール」、「ポーラー・スター」、マリー・アントワネットのダイヤモンドのイヤリング、イリナ公女のウェディング・ティアラ(カルティエ製)、「サンライズ・ティアラ」(ショーメ製)がある。[16][17]

宝飾品以外にも多くの美術品やルイ16世とマリー・アントワネットから贈られたセーブルの食器セット、ナポレオン1世から贈られたセーブルの花瓶とメレアグロスの狩りを描いたタペストリーなどを所有していた。また、ニコライ・ボリソヴィチ公が所有していたものにアマティストラディバリウスのヴァイオリンがあったという[18]

主な人物

[編集]
  • ユスフ=ムルザ(? ‐ 1555年) ‐ ノガイ・オルダのムサ・ビー(又はムサ・ハン)の息子で第一夫人の末子。[19]同母兄イスマイルにより殺害される。子どものうち娘スユンビケはカザン・ハン国に嫁いだ[2][注釈 7]
  • スユンビケ(1520年 ‐ 1557年) ‐ ユスフ=ムルザの娘。14歳でカザン・ハン国のハンであるジャン=アリと結婚した。彼の死後はサファ=ギレイ、シャー・アリと結婚した。後にロシアの捕虜となり、37歳で死去した。彼女の名前を冠した塔が存在する[20][21][22][注釈 8]
  • アブドゥル・ムルザ ‐ 正教会に改宗し、名をドミトリーと改め、皇帝フョードルからユスポフ公の称号を授かる。エカテリーナ・スマローコヴァと結婚した。[7]
  • グリゴリー・ドミトリエヴィチ・ユスポフ(1676年 ‐ 1730年) ‐ ピョートル大帝の最も私的な顧問の一人。エカチェリーナ1世の治世中には上院議員を務めた。また、露土戦争におけるアゾフ遠征に参加し、大北方戦争ではスウェーデン軍と戦った。[7][23][24]
  • ボリス・グリゴリエヴィチ・ユスポフ(1695年 ‐ 1759年) ‐ 女帝アンナイヴァン6世の治世中にモスクワ総督を、女帝エリザヴェータの治世下には、上院議員を務めた。アレクサンドル・ネフスキー大修道院のラザレフ墓地に埋葬された[7][23]
  • プラスコヴィヤ・グリゴリエヴナ・ユスポヴァ(? ‐ 1762年) ‐ グリゴリー・ユスポフ公の長女。女帝アンナの不興を買い、父グリゴリーの死後にモスクワからチフヴィンに連行され、修道院に入れられた。修道院で反逆的な発言をしたことで、「九尾の猫ロシア語版」と呼ばれる鞭打ち刑を受けた。その後、修道女として剃髪され、遠方の修道院に追放された[24]
  • ニコライ・ボリソヴィチ・ユスポフ(1751年 ‐ 1831年) ‐ ボリス・グリゴリエヴィチ・ユスポフ公の長男。1793年に未亡人のタチアナ・エンゲルハートロシア語版 [注釈 9]と結婚した。1798年にはマルタ騎士団の最高司令官に就任した。晩年には多くの愛人を抱えていたことで知られている[10][25]
  • ボリス・ニコラエヴィチ・ユスポフ(1794年 ‐ 1849年) ‐ ニコライ・ユスポフ公の長男。最初の妻プラスコヴィヤが24歳で死去すると、ジナイダ・ナルイシキナロシア語版と再婚した。スパッスコエに滞在しており、スパッスコエ・コトヴォ村の変革に取り組んだ。1849年に死去し、スパスカヤ教会に埋葬された[23]
  • ニコライ・ボリソヴィチ・ユスポフ(1827年 ‐ 1891年) ‐ ボリス・ユスポフ公の長男。サンクトペテルブルク大学出身。[26] 1856年に従妹のタチアナ・リボピエール伯爵令嬢(1829年 ‐ 1879年)と秘密裏に結婚した。[17][注釈 10]2人の間には3人の子供が生まれるが、そのうちボリスとタチアナは早世した。
  • ジナイダ・ニコラエヴナ・ユスポヴァ(1861年 ‐ 1939年) ‐ ニコライ・ユスポフ公の長女。ユスポフ家の女性相続人で、最後の男系子孫。代父にアレクサンドル2世がいる。1880年に皇后マリア・アレクサンドロヴナの侍女に任命される。1882年にフェリックス・スマローコフ=エルストン伯爵(1856年 ‐ 1928年)と結婚し、4人の子どもが生まれるが、成人したのはニコライとフェリックスのみである。セルゲイ大公とエリザヴェータ大公妃とは近くに居住を構えていたこともあり、特別親しかったと言われている。[注釈 11]1919年、息子一家と共に戦艦マールバラに乗り、ローマに亡命した[12]
  • タチアナ・ニコラエヴナ・ユスポヴァ(1866年 ‐ 1888年) ‐ ニコライ・ユスポフ公の次女。アレクサンドル2世の末子パーヴェル大公に恋していたと言われている。1888年6月15日、22歳で急逝し、モスクワのアルハンゲリスコエに埋葬された。[注釈 12] [27]
  • ニコライ・フェリクソヴィチ・ユスポフ(1883年 ‐ 1908年) ‐ ジナイダ・ユスポヴァ公女の長男。クレストフスキー島で行われた不倫相手マリナ・ゲイデンの夫アーヴィド・マントイフェル伯爵との決闘により25歳で死去した。叔母タチアナと同様にモスクワのアルハンゲリスコエに埋葬された[28]
  • フェリックス・フェリクソヴィチ・ユスポフ(1887年 ‐ 1967年) ‐ ジナイダ・ユスポヴァ公女の次男。1914年、アニチコフ宮殿でロシア公女イリナ・アレクサンドロヴナと結婚[12]。後にラスプーチン暗殺に関与したことで知られる。1919年、戦艦マールバラに乗り、フランスに亡命した[14]
  • イリナ・フェリクソヴナ・ユスポヴァ(1915年 ‐ 1983年) ‐ フェリックス・ユスポフの長女、アレクサンドル3世の曾孫。代父母はニコライ2世とマリア・フョードロヴナ[12]。1919年、戦艦マールバラに乗り、フランスに亡命した。[14]ニコライ・シュレメーテフ伯爵と結婚し、1942年に一人娘クセニアが生まれる。クセニアは1965年にギリシャ人のイリヤ・スフィリと結婚した。

系譜

[編集]
エディゲ
 
 
ヌラディン
 
 
ワッカス
 
 
ムサ・ビー
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
ユスフ=ムルザ
(?-1555)
ママイアルシャギルイスマイル
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
イル=ムルザ
(?-1611)
サファ=ギレイ
(1510-1549)
 
スユンビケ
 
ジャン=アリオラク
(?-1550)
ウルス=ビーバイテレクディンバイ=ムルザ
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
セユシュ=ムルザ・ユスポフ=クニャージェヴォウチャミシュ=ギレイ
(?‐1566)
カラサイカズウルソフ家バイテレコフ家カナイ
 
 
 
 
 
 
アブドゥル=ムルザ
 
エカテリーナ・スマローコヴァ
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
マトヴェイグリゴリー
(1676-1730)
 
アンナ・アキンフォヴァイヴァン
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
ボリス
(1695-1759)
 
イリナ・ジノヴィエヴァグリゴリー
(?-1737)
 
エウドキア・シャホフスカヤセルゲイ
(?-1734)
プラスコヴィヤ
(?-1762)
マリア
(?-1738)
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
ニコライ
(1751-1831)
 
タチアナ・エンゲルハート
(1767-1841)
 
M.S.ポチョムキン
(1744-1791)
アレクサンドラ
(1744-1791)
エリザヴェータ
(1745-1770)
アンナ
(1749-1772)
エウドキア
(1747-1780)
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
プラスコヴィヤ・シェルバトワ
(1795-1820)
 
ボリス
(1794-1849)
 
ジナイダ・ナルイシキナ
(1810-1893)
エカテリーナ・リボピエール
(1788-1872)
 
 
 
 
 
 
 
ニコライ
(1827-1891)
 
タチアナ・リボピエール
(1828-1879)
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
フェリックス
(1856-1928)
 
ジナイダ
(1861-1939)
ボリス
(1863)
タチアナ
(1866-1888)
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
ニコライ
(1883-1908)
フェリックス
(1887-1967)
 
ロシア公女
イリナ・アレクサンドロヴナ
(1895-1970)
 
 
 
 
イリナ
(1915-1983)
 
ニコライ・シュレメーテフ
(1904-1979)
 
 
 
 
イリヤ・スフィリ
 
クセニア・シュレメーテヴァ
 
 
 
 
アンソニー・ヴァンヴァキディス
 
タチアナ・スフィリ
 
アレクシス・ギアンナコプーロス
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
マリリア・ヴァンヴァキディスヤスミナ・ヴァンヴァキディス

ユスポフ家の宮殿と邸宅

[編集]
名称 場所 時期 写真
モイカ宮殿 サンクトペテルブルク 1770年代(1830年代再建)
フォンタンカ宮殿ロシア語版 サンクトペテルブルク 1789年 ‐ 1793年
ヴォルコフ・ユスポフ宮殿ロシア語版 モスクワ 17世紀 ‐ 19世紀
アルハンゲリスコエ宮殿英語版 モスクワ 1780年 ‐ 1789年
ジナイダ・ユスポヴァ宮殿ロシア語版 サンクトペテルブルク 1852年 ‐ 1858年
ジナイダ・ユスポヴァのダーチャロシア語版 サンクトペテルブルク、プーシキン 1856年 ‐ 1859年
ケリオレ城英語版 フランスコンカルノー 1883年
ユスポフ宮殿 クリミア 1909年
ラキトノエ宮殿 ベルゴロド州、ラキトノエ 1840年

現在、モイカ宮殿は博物館となっており、宮殿では国際会議や外交上の会談も行われているという。モイカ宮殿のガイドのアリョーナ・ペルミャコワ氏は、展示品のほとんどの配置やインテリアがそのまま、つまり所有者が亡命する前の状態であると語っている。[29] また、ラキトノエ宮殿も同様に郷土伝承博物館として利用されている。[30]

フェリックス・ユスポフ公によれば、アルハンゲリスコエ宮殿には、35000冊の蔵書が所蔵されている図書館があり、うち500冊はエリゼヴィール英語版のもので、蔵書の中には、1462年の聖書もあったと回顧録の中で述べている。[31]

ケリオレ城は 1893年にジナイダ・ナルイシキナロシア語版によって市に寄贈されたが、1956年にフェリックス・ユスポフが裁判で勝訴したことで、再び城の所有者となった。現在は一般公開されている。[32]

ギャラリー

[編集]

脚注

[編集]

注釈

[編集]
  1. ^ 預言者ムハンマドの甥アリの子孫であったという。
  2. ^ カラカルパク版の「エディゲ」では、エディゲの父はババ=トゥクリ=アジズで、エディゲにはアクビレクという妻がいたとされている。
  3. ^ バシュコルト版の「ママイ・ハンの物語」とノガイ版の「ミルザ・ママイ」において、ムサ・ビー(又はムサ・ハン)には、2人の妻と12人の息子がいたとされている。ノガイ版では、第一夫人の子は上から、サク・ママイ、サギム、アリ、コスム、ドスム、イスマイル、ユスフの7人で、第二夫人の子は上から、アルシャギル、シダク、ジャンマンベト、ヤブガシュト、ママイの5人がいたと記載されている。
  4. ^ バシュコルト版ではオラクはママイの同士(yuldash)とされており、オラクはママイの甥であることは確かであるとされている。
  5. ^ 他にヴォルテールディドロダランベールボーマルシェとも友人であった。
  6. ^ 実際にニコライ公は主催した晩餐会で金銀の皿を並べながらも、偽物の果物を混ぜるなどの節約をしていた。
  7. ^ 8人の息子と1人の娘がいた。また、イヴァン雷帝とは20年来の友人であった。
  8. ^ Суюмбекaの日本語読みに関しては、スユンビケ又はシュユンベキの2つがある。
  9. ^ グリゴリー・ポチョムキンの姪でエカチェリーナ2世の侍女。1人目の夫は遠縁のミハイル・セルゲエヴィチ・ポチョムキン。
  10. ^ 正教会において、従兄妹同士の結婚は禁止されていた。ニコライの父とタチアナの母は異父姉弟であるため、ニコライとタチアナは従兄妹である。
  11. ^ セルゲイ大公とパーヴェル大公などユスポフ家と居住が近かったロマノフ家の人々は、しばしばユスポフ家を訪れていたという。
  12. ^ タチアナの死因については断定されておらず、急性疾患、もしくは腸チフスによるものとされている。父ニコライ・ボリソヴィチ・ユスポフ公はタチアナの死の詳細を隠すことを望んだと言われている。

出典

[編集]
  1. ^ a b Yusupov(1954年)p.3
  2. ^ a b c Yusupov(1954年)p.4
  3. ^ 中央ユーラシアの叙事詩に謡われる「ノガイ」について”. スラブ・ユーラシア研究センター. 2024年7月19日閲覧。
  4. ^ モンゴル・タタールの4人の王女:ロシアで暮らしロシアに死す”. ロシア・ビヨンド. 2024年8月6日閲覧。
  5. ^ Yusupov(1954年)p.5
  6. ^ 坂井(2013年3月)p.54
  7. ^ a b c d e f Yusupov(1954年)p.6
  8. ^ Князья Юсуповы Из истории рода князей Юсуповых”. yusupov.org. 2024年8月8日閲覧。
  9. ^ Yusupov(1954年)pp.6‐7
  10. ^ a b Yusupov(1954年)pp.8‐9
  11. ^ Yusupov(1954年)pp.23‐24
  12. ^ a b c d e Онлайн-выставка «Каплюша, Зайде, княжна Зинаида...»”. Музей-заповедник «Архангельское. 2024年7月22日閲覧。
  13. ^ a b Yusupov(1954年)pp.29‐32
  14. ^ a b c HMS Marlborough Evacuates Members of the Imperial Family, Yalta, April, 1919”. Alexander palace. 2024年6月26日閲覧。
  15. ^ 坂井(2013年9月)p.55
  16. ^ a b Русские ювелирные коллекции: семья Юсуповых”. chk-jewelry.ru. 2024年7月9日閲覧。
  17. ^ a b Yusupov(1954年)p.25
  18. ^ Yusupov(1954年)pp.8‐11
  19. ^ 坂井(2008年)
  20. ^ Yusupov(1954年)pp.4‐5
  21. ^ ロシアにも「ピサの斜塔」があった!”. ロシア・ビヨンド. 2024年7月23日閲覧。
  22. ^ Род Князей Юсуповых”. yusupov.org. 2024年7月23日閲覧。
  23. ^ a b c Князья Юсуповы Из истории рода князей Юсуповых”. yusupov.org. 2024年8月8日閲覧。
  24. ^ a b Юсуповы”. yusupov.org. 2024年8月8日閲覧。
  25. ^ Yusupov(1954年)p.14
  26. ^ Yusupov(1954年)p.23
  27. ^ Княжна Татьяна Николаевна Юсупова”. Юсуповский дворец на мойке. 2024年7月22日閲覧。
  28. ^ Ракурс Татьяна Сабурова, Николай Феликсович Юсупов”. yusupov.org. 2024年7月23日閲覧。
  29. ^ ペテルブルクのユスポフ宮殿:「怪僧」ラスプーチンが殺された場所(写真特集)”. ロシア・ビヨンド. 2024年7月9日閲覧。
  30. ^ Усадьба Юсуповых. Адрес — Белгородская обл., Ракитянский р-н, п. Ракитное, ул. Пролетарская, 2” (ロシア語). Культурный регион. 2024年7月10日閲覧。
  31. ^ Yusupov(1954年)p.16
  32. ^ Kériolet. Le château d'une fantasque Russe” (フランス語). Le Télégramme. 2024年7月9日閲覧。

参考文献

[編集]
  • 坂井弘紀「オルマンベトとその時代 -口頭伝承に現れるノガイ=オルダの有力者について-」『東北アジア研究センター叢書』第13巻、東北大学東北アジア研究センター、2013-09‐10、55頁、ISBN 490144913-3 
  • 坂井弘紀「16世紀のノガイ=オルダ(2) : カラサイ、カジとアディルに焦点をあてて」『和光大学表現学部紀要』第13巻、和光大学表現学部、2013-03‐11、54頁、CRID 1050001202942326016ISSN 13463470 
  • 坂井弘紀「中央ユーラシア・テュルクの英雄叙事詩「オラクとママイ」」『千葉大学人文社会科学研究科研究プロジェクト報告書』148集、千葉大学大学院人文社会科学研究科、2008年3月、CRID 1050288547198271488ISSN 18817165 
  • Felix Yusupov Ann Green訳 (1954). Lost Splendor. New York: G. P. Putnam's Sons. https://archive.org/details/lostsplendor00yous/page/n5/mode/2up 

外部リンク

[編集]