ヨハネス・スピルベルク
ヨハネス・スピルベルク Johannes Spilberg | |
---|---|
スピルベルク作「エステルの饗宴」 | |
生誕 |
1619年4月30日 デュッセルドルフ |
死没 |
1690年8月10日 (71歳没) デュッセルドルフ |
ヨハネス・スピルベルク(Johannes Spilberg、1619年4月30日 - 1690年8月10日)は、17世紀のドイツの画家である。プファルツ選帝侯、フィリップ・ヴィルヘルムやその子ヨハン・ヴィルヘルムの宮廷画家を務めた。
略歴
[編集]デュッセルドルフで生まれた。宮廷画家の一族で、同名の父親 Johannes Spilberg der Ältereもプファルツ選帝侯、ヴォルフガング・ヴィルヘルムの宮廷画家であったが作品は残されていない[1]。叔父にスペイン王室の宮廷画家になったガブリエル・スピルベルク(Gabriel Spilberg)がいる。
父親から絵を学び、デュッセルドルフの学校で学問を学んだ後、1640年に選帝侯ヴォルフガング・ヴィルヘルムに命じられて、推薦状をもってアントウェルペンの画家、ピーテル・パウル・ルーベンス(1577-1640) のもとに修行に送られたが、ルーベンスはその年に亡くなっていたので、アムステルダムで肖像画を得意とする画家のホーファールト・フリンク(1615-1660)に学ぶことになり、7年間修業した。
歴史画や肖像画で人気の画家となり、1650年にはアムステルダムの銃士隊の集団肖像画の依頼も受けた。1648年にアムステルダムの女性と結婚した。2人の息子と3人の娘が生まれ、娘の一人、アドリアナ・スピルベルク(Adriana Spilberg: 1650-1697)は画家になり、ヴィルヘルム・ブレークフェルト(Wilhelm Breekvelt: 1658–1687)と結婚し、夫が亡くなった後、エグロン・ファン・デル・ネール (1636–1703)と結婚した。
1650年代の初め、デュッセルドルフ宮廷の宮廷画家として招かれたが、1653年にアムステルダムに戻り、1661年に再び呼ばれ、宮廷画家に任じられ、1690年に亡くなるまで宮廷画家の地位にあった[2][3][4][5]。建築家のミヒャエル・カニョン(Michael Cagnon)の設計したデュッセルドルフの教会(Neanderkirche)の装飾画も描いた。
デュッセルドルフで没した。
作品
[編集]-
" Jael" (1644)
絵画館 (ベルリン)蔵 -
公爵夫人と孫たち(1667)
Stadtmuseum Landeshauptstadt Düsseldorf蔵
参考文献
[編集]- ^ Friedrich Schaarschmidt: Zur Geschichte der Düsseldorfer Kunst, insbesondere im XIX. Jahrhundert. Verlag des Kunstvereins für die Rheinlande und Westfalen, Düsseldorf 1902, S. 10 (online)
- ^ Karl Leopold Strauven: Ueber künstlerisches Leben und Wirken in Düsseldorf bis zur Düsseldorfer Maler-Schule unter Direktor Schadow. Hofbuchdruckerei H. Voß, Düsseldorf 1862, S. 7 ff. (online)
- ^ Hans-Joachim Raupp (Hrsg.): Porträts. Niederländische Malerei des 17. Jahrhunderts der SØR Rusche Sammlung. LIT Verlag, Münster, Hamburg, London, 1995, ISBN 3-8258-2204-4, S. 136 (online)
- ^ Arnold Houbraken: De groote schouwburgh der Nederlantsche konstschilders en schilderessen. Gent, 1721, S. 42 f. (online, Wiedergabe auf einer Webseite im Portal dbnl.org (2009))
- ^ Friedrich Lau: Geschichte der Stadt Düsseldorf. Erster Band: Von den Anfängen bis 1815. Düsseldorf 1921, S. 199 (online)