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ヨハネス1世 (トレビゾンド皇帝)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
ヨハネス1世アクスーコス
Ιωάννης Κομνηνός Ἀξούχος
トレビゾンド帝国皇帝英語版
ビザンツ皇帝(僭称)
ヨハネス1世アクソウコスにより鋳造されたコイン
在位 1235年 - 1238年
別号 ローマ人の皇帝と独裁官

出生 1214年以前
死去 1238年
家名 コムネノス家
王朝 コムネノス朝
父親 アレクシオス1世コムネノス
母親 テオドラ・アクスーキナ(推定)
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ヨハネス1世アクスーコス[1][2]ギリシア語: Ιωάννης Κομνηνός Ἀξούχος, 1214年以前 - 1238年)は、1235年から1238年にかけてトレビゾンド帝国を支配した皇帝英語版である。13世紀の歴史家でトレビゾンド帝国の官僚であるミカエル・パナレトス英語版の書物によれば、ヨハネス1世の治世は6年であったとされるが、近代の歴史家であるウィリアム・ミラー氏は、ドイツの歴史家Jakob Philipp Fallmerayer(en)の主張する「この記述は3年間の間違いである」という考えに同調している[3]。また、「ヨハネス1世はアンドロニコス1世ギドスとの共同皇帝として初めの3年間統治し、アンドロニコスの死後、3年間単独で統治した」という別説も存在する。

背景

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彼はアレクシオス1世コムネノスの長男として誕生した。母親の名前は一次資料には記されていないが、母親の名はテオドラ・アクスーキナであると主張する歴史家も存在する[要出典]。ミラーの主張によると、ヨハネスは父親が亡くなった1222年の時点ではまだ幼い子供であったという。その裏付けとして、アレクシオス亡きトレビゾンド皇帝の帝位は彼の義理の息子であるアンドロニコス1世ギドスに引き継がれたことを挙げており[4]シノーペー包囲戦の最中に記された書物の1つには、「アレクシオス帝はトレビゾンドの息子たちを、自ら領国を統治することができるほどにまで育て上げた」という文言が記されており、ヨハネスが1214年以前に出生したことは明確である[5]

統治と死

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ヨハネスの治世における記録は、彼の死に関する記述を除いて非常に少ない。ヨハネスはツィカニオン(tzykanion)と呼ばれるポロのようなスポーツを嗜んでいたところ、馬から落馬して踏みつけられたことで亡くなったと伝わっている[6] 。(このスポーツはビザンツ貴族の間で広く流行っていた。) このころ、彼の後継者は2人存在した。イオアニキオスとマヌエルである。しかしイオアニキオスは修道院に幽閉されたため、帝位はヨハネスの兄弟であるマヌエルに継承された。ファルメライヤー以降の多くの歴史は幽閉されたイオアニキオスをヨハネス1世アクスーコスの息子だと考えているものの、歴史家ミハエル・パナレトス英語版の年代期には、イオアニキオスとヨハネスの関係性について何も言及していない。またRustam Shukurovは、イオアニキオスをマヌエルとミカエルの兄弟であったと主張している[7]

また、ヨハネスが銀貨(またはアスプロン硬貨英語版)を鋳造したのかどうかについても意見が分かれている。最近の研究者の中には、貨幣学的根拠を元に考慮すると、ヨハネスが鋳造したと考えるよりもヨハネス2世メガス・コムネノス英語版が鋳造したと考えた方がより相応しいと考える学者も存在する[8]

脚注

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  1. ^ Kazhdan, Alexander, ed (1991). Oxford Dictionary of Byzantium. Oxford: Oxford University Press. p. 64. ISBN 978-0-19-504652-6  (see Oxford Dictionary of Byzantium)
  2. ^ William Miller, opines that "Axouchos" appears to have been a family name of the Komnenos, "for it had been borne by John Axouch|a Persian, who had been Great Domestic at Constantinople". Trebizond: The Last Greek Empire of the Byzantine Era, 1926 (Chicago: Argonaut, 1969), p. 24
  3. ^ Miller, Trebizond, p. 25 and note
  4. ^ Miller, Trebizond, p. 19
  5. ^ A. A. Vasiliev, "The Foundation of the Empire of Trebizond (1204-1222)", Speculum, 11 (1936), p. 27
  6. ^ George Finlay (The History of Greece and the Empire of Trebizond, (1204-1461), (Edinburgh: William Blackwood, 1851), p. 338 n. 1) discusses the possible locations of the hippodrome of Trebizond where John died.
  7. ^ Shukurov, "The enigma of David Grand Komnenos", Mesogeios, 12 (2001), pp. 131f (accessed 22 February 2014)
  8. ^ A.A. Gordus and D.M. Metcalf, "Non-destructive Chemical Analysis of the Byzantine Silver Coinage of Trebizond", Archeion Pontou, 33 (1975-1976), p. 29

外部リンク

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ヨハネス1世 (トレビゾンド皇帝)

不明 - 1238年

爵位・家督
先代
アンドロニコス1世ギドス
トレビゾンド皇帝英語版
1235年–1238年
次代
マヌエル1世コムネノス