ヨハン・シュトラウス
ヨハン・シュトラウス(ドイツ語: Johann Strauss)は、ウィンナ・ワルツの作曲家ファミリーとして知られるシュトラウス家にみられる人名。または、その人名に由来するバラの品種名。
概要
[編集]単に「ヨハン・シュトラウス」とだけ書いた場合、通常は2世を指す。1世は「ヨハン・シュトラウス1世」または「ヨハン・シュトラウス(父)」とするのが通例である。3世はドイツ語圏では「Enkel(孫)」と呼ばれるが、日本では「ヨハン・シュトラウス(孫)」などとする表記はほとんどみられない。
- ヨハン・シュトラウス1世
- ヨハン・シュトラウス2世 : 1世の長男。
- ヨハン・シュトラウス3世 : 2世の末弟エドゥアルト・シュトラウス1世の長男。
なお、3世の長男の名もヨハンであり、さらにその長男もヨハンである(彼らは音楽家ではないが、言うなればヨハン4世、ヨハン5世)。また、1世の祖父の名はヨハン・ミヒャエルであり、叔父の名はヨハン・アダムであった。
対象の変遷
[編集]元々は「ヨハン・シュトラウス」といえば1世のことを指していた。他に同姓同名の作曲家はおらず、呼び分ける必要がなかったためである。やがて1844年に2世がデビューを果たすと、人々は1世を「ファーター(父)」、2世を「ゾーン(息子)」と呼んで両者を区別するようになった[1]。
当時「ワルツ王」と呼ばれ、息子を圧倒していたヨハン1世は自ら「ファーター」と名乗ることはせず、単に「ヨハン・シュトラウス」と名乗った[1]。しかし彼の死後やがて2世のほうが有名になる。元々は父親を指していたあだ名「ワルツ王」は2世のことを指すようになり、さらに「ヨハン・シュトラウス」についても通常2世を指すようになった。
こうして2世が「ヨハン・シュトラウス」と呼ばれるようになったが、1898年12月に甥のヨハン3世が音楽家デビューを果たす。すると、区別のために今度は3世が「ジュニア」を付して呼ばれるようになった[2]。(2世はそのまま「ヨハン・シュトラウス」)
現在でも通常は「ヨハン・シュトラウス」といえばやはり最も有名な2世を指すことが多い[3]が、父との区別のために2世に再び「ジュニア」などを付けて呼ぶことも多くなった。この動きに伴って、いつしか3世も「ジュニア」ではなく「エンクル(孫)」と呼ばれるようになった。
脚注
[編集]- ^ a b 加藤雅彦『ウィンナ・ワルツ ハプスブルク帝国の遺産』日本放送出版協会〈NHKブックス〉、2003年12月20日。ISBN 4-14-001985-9。p.78
- ^ なお、ヨハン2世は翌1899年6月に死去するため、2世と3世の活動期間は半年ほどしか重なっていない。
- ^ 『ヨハン・シュトラウス記念像』や『ヨハン・シュトラウス劇場』などの名前からもこの傾向がみてとれる。