ヨハン・カジミール (アンハルト=デッサウ侯)
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ヨハン・カジミール Johann Kasimir | |
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アンハルト=デッサウ侯 | |
在位 | 1618年 - 1660年 |
出生 |
1596年9月7日 神聖ローマ帝国 アンハルト侯領、デッサウ |
死去 |
1660年9月15日(64歳没) 神聖ローマ帝国 アンハルト=デッサウ侯領、デッサウ |
配偶者 | アグネス・フォン・ヘッセン=カッセル |
ゾフィー・マルガレーテ・フォン・アンハルト=ベルンブルク | |
子女 |
モーリッツ ドロテア ユリアーネ ヨハン・ゲオルク2世 ルイーゼ アグネス |
家名 | アスカーニエン家 |
父親 | アンハルト=デッサウ侯ヨハン・ゲオルク1世 |
母親 | ドロテア・フォン・プファルツ=ジンメルン |
ヨハン・カジミール(Johann Kasimir von Anhalt-Dessau, 1596年9月7日 - 1660年9月15日)は、アンハルト=デッサウ侯(在位:1618年 - 1660年)。アンハルト=デッサウ侯ヨハン・ゲオルク1世とその2番目の妻でプファルツ=ジンメルン公ヨハン・カジミールの娘であるドロテアの間の最初の息子として生まれた。
生涯
[編集]1608年から1609年まで、ヨハン・カジミールは従弟でアンハルト=ベルンブルク侯世子のクリスティアン2世とともにジュネーヴに留学している。1615年に異母兄ヨアヒム・エルンストの早世によって父の後継ぎとされ、1617年に父の創設した「実りを結ぶ会」に入会した。1618年に父が死ぬと侯位を継いだが、国務はもっぱら宮廷の顧問官たちに任せ、狩猟に熱中する生涯を送った。
1652年10月4日の狩猟事故により、死ぬまでベッドで暮らすことを余儀なくされた。侯爵の無聊を紛らすため、高名な詩人・作家のフィリップ・フォン・ツェーゼンがデッサウ宮廷に雇われている。
子女
[編集]1623年5月18日、ヘッセン=カッセル方伯モーリッツの娘アグネス(1606年 - 1650年)と結婚し、間に6人の子女をもうけた。
- モーリッツ(1624年)
- ドロテア(1625年 - 1626年)
- ユリアーネ(1626年 - 1652年)
- ヨハン・ゲオルク2世(1627年 - 1693年) - アンハルト=デッサウ侯
- ルイーゼ(1631年 - 1680年) - 1648年、レグニツァ=ブジェク公フリスティアンと結婚
- アグネス(1644年)
1651年7月14日、叔父のアンハルト=ベルンブルク侯クリスティアン1世の娘ゾフィー・マルガレーテ(1615年 - 1673年)と再婚したが、間に子供は生まれなかった。
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