ヨハン・フリードリヒ (プファルツ=ズルツバッハ=ヒルポルトシュタイン公)
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ヨハン・フリードリヒ Johann Friedrich | |
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プファルツ=ズルツバッハ=ヒルポルトシュタイン公 | |
在位 | 1614年 - 1644年 |
出生 |
1587年8月23日 神聖ローマ帝国 プファルツ=ノイブルク公領、ノイブルク・アン・デア・ドナウ |
死去 |
1644年10月19日(57歳没) 神聖ローマ帝国 プファルツ=ズルツバッハ=ヒルポルトシュタイン公領、ヒルポルトシュタイン |
埋葬 |
神聖ローマ帝国 プファルツ=ノイブルク公領、ラウインゲン・アン・デア・ドナウ、聖マルティン教区教会 |
配偶者 | ゾフィー・アグネス・フォン・ヘッセン=ダルムシュタット |
子女 | 一覧参照 |
家名 | プファルツ=ノイブルク家 |
父親 | プファルツ=ノイブルク公フィリップ・ルートヴィヒ |
母親 | アンナ・フォン・ユーリヒ=クレーフェ=ベルク |
宗教 | キリスト教ルター派 |
ヨハン・フリードリヒ(ドイツ語:Johann Friedrich, 1587年8月23日 - 1644年10月19日)は、プファルツ=ズルツバッハ=ヒルポルトシュタイン公(在位:1614年 - 1644年)。
生涯
[編集]ヨハン・フリードリヒはプファルツ=ノイブルク公フィリップ・ルートヴィヒと、ユーリヒ=クレーフェ=ベルク公ヴィルヘルム5世の娘アンナの末息子である。1614年に父フィリップ・ルートヴィヒが亡くなった後、長兄ヴォルフガング・ヴィルヘルムはヒルポルトシュタイン、ハイデックおよびアラースベルクを代理としてヨハン・フリードリヒに委ねなくてはならなかった。もう一人の兄アウグストはズルツバッハを得たが、主権は長兄ヴォルフガング・ヴィルヘルムに留保されたままであった。ヨハン・フリードリヒの強い抗議のもと、国内各地で対抗宗教改革が行われた。兄のアウグストと同様に、ヨハン・フリードリヒはルター派を貫き、ヴォルフガング・ヴィルヘルムから礼拝を受ける権利を与えられた。
ヨハン・フリードリヒは1619年からヒルポルトシュタインに居を構え、1624年にダルムシュタットでヘッセン=ダルムシュタット方伯ルートヴィヒ5世の娘ゾフィー・アグネス(1604年 - 1664年)と結婚した。2人の間に生まれた8人の子供たちはいずれも3歳を超えて生きのびることができなかった。ヨハン・フリードリヒは1644年に後継者がいないまま死去し、ヒルポルトシュタインはプファルツ=ノイブルクに再統合された[1]。ヨハン・フリードリヒはラウインゲン・アン・デア・ドナウの聖マルティン教区教会に埋葬されている。
子女
[編集]- アンナ・ルイーゼ(1626年 - 1627年)
- マリー・マグダレーネ(1628年 - 1629年)
- フィリップ・ルートヴィヒ(1629年 - 1632年)
- ヨハン・フリードリヒ(1630年)
- 娘(1631年)
- マリー・エレオノーレ(1632年)
- ヨハンナ・ゾフィー(1635年 - 1636年)
- アンナ・マグダレーネ(1638年)
脚注
[編集]- ^ Konrad Mannert. Die Geschichte Bayerns. p. 420
参考文献
[編集]- Max Spindler, Andreas Kraus. Handbuch der bayerischen Geschichte. p. 136
外部リンク
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