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ヨハン・ルートヴィヒ・アベルリ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
ヨハン・ルートヴィヒ・アベルリ
Johann Ludwig Aberli
Jakob Emanuel Handmannによる肖像画
生誕 (1723-11-14) 1723年11月14日
スイス、ヴィンタートゥール
死没 1786年10月17日(1786-10-17)(62歳没)
スイス、ベルン
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ヨハン・ルートヴィヒ・アベルリ(Johann Ludwig Aberli、1723年11月14日 - 1786年10月17日)はスイスの画家、版画家である。ベルンで版画工房を開き、風景版画などを出版した。

略歴

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スイス・チューリヒ州ヴィンタートゥールの貧しい守衛の息子に生まれた。短期間の学校生活の後、ハインリヒ・マイヤーという地元の風景画家の弟子なった。マイヤーのとりなしによって、18歳になった1741年に、アベルリはベルンにあるヨハン・グリム(Johann Grimm: 1675-1747)の経営する絵画学校に入学できた。美術学校で学びながら肖像画や装飾画を描く仕事もした。

1740年代は画家のブリックマン(Philipp Hieronymus Brinckmann: 1709-1760)とベルナー・オーバーラントなどを旅しって風景画を描いた。1747年に結婚し 娘が生まれたが早逝した。1747年にヨハン・グリムが亡くなった後、彼の美術学校の運営を引き継いだ。美術学校の生徒とレマン湖ビール湖、ヌシャテル湖に写生旅行した。

1750年代に入ると、自らのスタジオと出版会社を作り、自分の版画作品の出版を始めた。弟子に版画を教え、アドリアン・ツィング(1734-1816)を版画家として雇った。アベルリが育てた版画家にはサミュエル・ヒエロニムス・グリム(Samuel Hieronymus Grimm: 1733-1794)がいる。1759年に2人の弟子とパリに出て、7週間滞在し、パリの美術品を鑑賞し、パリで人気のあった版画家のヨハン・ゲオルク・ヴィレ(1715-1808)の仕事を知った。

パリから戻ると、ベルンに版画や美術品の販売店を開き成功し、美術品コレクションを構築し、多くの美術家や文学者、学者らと交際するようになった。学者のアルブレヒト・フォン・ハラーヨハン・ヤーコプ・ボードマー、ヨハン・ブライティンガー(Johann Jakob Breitinger)らとも交流した。

多色版画の新しい技法も開発した。1779年に、ヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテがスイスへの2度目の旅をした時、ゲーテはアベルリを訪ねた。

ベルンで62歳で亡くなった。アベルリの事業は、助手を務めた画家のハインリッヒ・リーター(Heinrich Rieter: 1751-1818)が引き継いだ。

作品

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参考文献

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  • Frédéric-Charles Lonchamp: J.-L. Aberli (1723–1786). Son temps, sa vie et son oeuvre avec un catalogue complet, méthodique et raisonné a) de son oeuvre gravé; b) de l'oeuvre gravé de ses interprétateurs; c) de ses peintures et de ses dessins (crayons, aquarelles, esquisses, etc.), Paris 1927.
  • Wilhelm Adolf Schmidt: Aberli, Johann Ludwig. In: Allgemeine Deutsche Biographie (ADB). Band 1, Duncker & Humblot, Leipzig 1875, S. 20.
  • Tobias Pfeifer-Helke: Aberli, Johann Ludwig. In: Sikart