ヨーゼフ・ハシッド
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ヨーゼフ・ハシッド | |
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生誕 | 1923年12月28日 |
出身地 | ポーランドスヴァウキ |
死没 | 1950年11月7日(26歳没) |
学歴 | ショパン音楽院 |
ジャンル | クラシック音楽 |
職業 | ヴァイオリニスト |
担当楽器 | ヴァイオリン |
ヨーゼフ・ハシッド(Josef Hassid、ポーランド語: Józef Chasyd、1923年12月28日 - 1950年11月7日)は、ポーランド出身のイギリスのヴァイオリニスト。
経歴
[編集]ポーランドのスヴァウキに生まれる。幼い頃に母を亡くし、父に育てられる。10歳でワルシャワ音楽院に入学。1935年、11歳にしてワルシャワのヘンリク・ヴィエニャフスキ国際ヴァイオリン・コンクールで名誉ディプロマ受賞[1]。フリッツ・クライスラーからは、「世界的なヴァイオリンの逸材は100年に一度生まれるが、ヨーゼフ・ハシッドは200年に一度の逸材である」とまで絶賛された。
1938年、第二次世界大戦の戦禍を避けて父と共にロンドンへ移住し、カール・フレッシュに師事して録音を残す[1]。1939年にはイギリスでデビューして大成功をおさめ、初の録音を行う。翌1940年には興行主ハロルド・ホルトと契約を結ぶ。しかし同じフレッシュ門下の令嬢との失恋が元で1941年3月の演奏会を最後に統合失調症を発し、ノーサンプトンの聖アンドリューズ病院に収容されてインスリン・ショック療法などを受ける。一時は症状が改善して翌1942年には演奏活動を再開するが、同年11月に病状が悪化してエプソムのロンググローブ病院に強制入院させられ、1950年10月20日にロボトミーを受けた18日後に後遺症が元で死去。26歳没。
9つ(実際には8曲)の小品の名録音を遺した。
使用した楽器
[編集]クライスラーから貸与されたジャン=バティスト・ヴイヨームの楽器を使用していた。
残された録音
[編集]- エドワード・エルガー: 「気まぐれ女 La Capricieuse」 Op.17(ピアノ: Ivor Newton)- 1939年1月9日
- 同上(ピアノ: ジェラルド・ムーア)- 1940年6月12日
- ピョートル・チャイコフスキー: 「懐かしい土地の思い出」より『メロディー Mélodie』Op.42-3 - 1940年6月12日
- パブロ・デ・サラサーテ: 「スペイン舞曲集」 第6番『サパテアード』 Op.23-2 - 1940年6月12日
- 同上: 「スペイン舞曲集」 第5番『Playera』 Op.23-1 - 1940年6月28日
- フリッツ・クライスラー: ウィーン奇想曲 Op.2 - 1940年11月29日
- ジョーゼフ・アクロン: 「ヘブライのメロディー」 - 1940年11月29日
- アントニン・ドヴォルザーク(クライスラー編曲): ユモレスク Op.101-7 - 1940年11月29日
- ジュール・マスネ: 歌劇「タイス」より『瞑想曲』 - 1940年11月29日
外部リンク
[編集]脚注
[編集]- ^ a b Aavakivi, Marie-Helen 2019, p. 73.
参考文献
[編集]- Aavakivi, Marie-Helen (2019). Professor Johannes Paulseni viiuliõpilaste repertuaar ja esitusstiil 1930 (Thesis) (エストニア語). Tallinn: Eesti Muusika- ja Teatriakadeemia.