ラウル・アマリージャ
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名前 | ||||||
本名 |
ラウル・ビセンテ・アマリージャ・ベラ Raúl Vicente Amarilla Vera | |||||
愛称 |
タクアラ (Tacuara)[1] フンコ (Junco)[1] | |||||
ラテン文字 | Raúl AMARILLA | |||||
基本情報 | ||||||
国籍 |
パラグアイ スペイン | |||||
生年月日 | 1960年7月19日(64歳) | |||||
出身地 | ルケ | |||||
身長 | 189cm | |||||
体重 | 77kg | |||||
選手情報 | ||||||
ポジション | FW | |||||
クラブ1 | ||||||
年 | クラブ | 出場 | (得点) | |||
1978-1980 | スポルティボ・ルケーニョ | |||||
1980-1981 | ラシン・サンタンデール | |||||
1980-1985 | レアル・サラゴサ | 126 | (47) | |||
1985-1988 | FCバルセロナ | 35 | (9) | |||
1988-1989 | オリンピア・アスンシオン | |||||
1989-1990 | クラブ・アメリカ | |||||
1990-1993 | オリンピア・アスンシオン | |||||
1993-1994 | 横浜フリューゲルス | 26 | (15) | |||
通算 | 187 | (71) | ||||
代表歴 | ||||||
1982-1983 | スペインU-21 | 2 | (0) | |||
監督歴 | ||||||
2006-2007 | パラグアイ(暫定) | |||||
1. 国内リーグ戦に限る。 ■テンプレート(■ノート ■解説)■サッカー選手pj |
ラウル・アマリージャ(Raúl Vicente Amarilla Vera、1960年7月19日 - )は、パラグアイ・ルケ出身の元サッカー選手。選手時代のポジションはフォワードであり、189cmの長身を生かしたヘディングを最大の武器としていた[2]。息子のラウル・アマリージャ・ロメロもサッカー選手である[3]。ニックネームはスペイン語で竹。妻は元パラグアイ代表のフリオ・セサル・ロメロの妹[4]。
経歴
[編集]選手時代
[編集]パラグアイ、スペインの二重国籍を持ち、本来の母国であるパラグアイ代表入りを目指したが レアル・サラゴサ在籍時にスペインU-21代表として公式戦に出場していたため、当時の国際サッカー連盟の規定によりパラグアイ代表としてプレーすることができなかった[5]。1984-85シーズン途中から1988年まではスペインのFCバルセロナでプレーし、リーガ優勝やスペイン国王杯優勝を経験した。
1989年には通算10ゴールをあげてオリンピア・アスンシオンのリベルタドーレス杯決勝進出に貢献、決勝では敗れた[4]。一時メキシコのクラブ・アメリカへ移籍していたため、翌年のリベルタドーレス杯では2次ラウンドからオリンピアに複帰、5試合6得点、出場した試合全てでゴールを決め、リベルタドーレス杯の優勝に貢献し[4]、南米年間最優秀選手賞を受賞[5]。同年12月のトヨタカップで訪日し、イタリアのACミランと対戦した(試合は0-3でオリンピアの敗退)[6]。
1993年から日本の横浜フリューゲルスに入団し、11月13日の清水エスパルス戦でJリーグ初ゴール[7]、1994年1月1日の第73回天皇杯全日本サッカー選手権大会決勝の鹿島アントラーズ戦では延長戦に入り2ゴールを決め、チーム初タイトルに貢献した[5]。1994年シーズンは開幕からゴールを量産して得点王を狙える位置にいたが、恥骨結合炎を発症し、後期開幕を前に引退を決断した。Jリーグでは26試合15ゴールの成績を残した[7]。
引退後
[編集]引退後はサッカー指導者となり、スポルティボ・サン・ロレンソ、タクアリーFC、スポルティボ・ルケーニョなどのクラブを指導[1]。2006年にドイツで開催された2006 FIFAワールドカップの際にはウルグアイ人監督のアニバル・ルイスの下でアシスタントコーチを務め[1]、ルイスの退任後はヘラルド・マルティーノに引き継ぐまでの間、暫定監督を務めた[8]。
その後はサッカーとは距離を置き、アルト・パラナ県のスポーツ長官を務めた[1]。2017年9月に古巣のオリンピアに復帰すると[1]、2020年時点では同クラブのスポーツマネージャーを務めている[9]。
個人成績
[編集]この節の加筆が望まれています。 |
国内大会個人成績 | |||||||||||
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年度 | クラブ | 背番号 | リーグ | リーグ戦 | リーグ杯 | オープン杯 | 期間通算 | ||||
出場 | 得点 | 出場 | 得点 | 出場 | 得点 | 出場 | 得点 | ||||
日本 | リーグ戦 | リーグ杯 | 天皇杯 | 期間通算 | |||||||
1993 | 横浜F | - | J | 7 | 3 | 4 | 0 | 5 | 3 | 16 | 6 |
1994 | 19 | 12 | 0 | 0 | - | 19 | 12 | ||||
通算 | 日本 | J | 26 | 15 | 4 | 0 | 5 | 3 | 35 | 18 | |
総通算 | 26 | 15 | 4 | 0 | 5 | 3 | 35 | 18 |
その他の公式戦
- 1994年
- スーパーカップ 1試合0得点
タイトル
[編集]クラブ
[編集]バルセロナ
[編集]- プリメーラ・ディビシオン: 1984-85
- コパ・デル・レイ: 1987-88
オリンピア
[編集]- リーガ・パラグアージャ: 1988、1993
- コパ・リベルタドーレス: 1990
- スーペルコパ・スダメリカーナ: 1990
横浜フリューゲルス
[編集]- 天皇杯全日本サッカー選手権大会: 1994
個人
[編集]- リーガ・パラグアージャ得点王: 1998
- コパ・リベルタドーレス得点王: 1989
- 南米年間最優秀選手賞: 1990
脚注
[編集]- ^ a b c d e f “¿Qué fue de Raúl Vicente Amarilla? El 'Tacuara' no se muerde la lengua”. sport.es (2018年5月10日). 2021年1月15日閲覧。
- ^ 週刊サッカーマガジン 編『サッカーマルチ大事典 改訂版』ベースボール・マガジン社、2006年、56頁。ISBN 4-583-03880-1。
- ^ “Raúl Vicente Amarilla (h), del fútbol al básquetbol”. abc.com (2013年9月27日). 2016年10月15日閲覧。
- ^ a b c TOYOTA CUP ヨーロッパサウスアメリカカップ 1990年 大会公式パンフレット、P39
- ^ a b c “ラウル・ビセンテ・アマリージャ・ヴェラ”. 超WORLDサッカー!. 2016年10月15日閲覧。
- ^ “More Than A Game: Cerro Porteno vs Olimpia”. FourFourTwo (2006年12月1日). 2016年10月15日閲覧。
- ^ a b “アマリージャ”. j-league 17 April 2020閲覧。
- ^ “APF nombra a Raúl Vicente Amarilla como técnico de la selección”. nacion.com (2006年8月23日). 2021年1月15日閲覧。
- ^ “Raúl Vicente Amarilla extiende su contrato con Olimpia”. tigosports (2020年11月6日). 2021年1月15日閲覧。
関連項目
[編集]外部リンク
[編集]- ラウル・アマリージャ - Soccerway.com
- ラウル・アマリージャ - FootballDatabase.eu
- ラウル・アマリージャ - WorldFootball.net
- ラウル・アマリージャ - Transfermarkt.comによる選手データ
- ラウル・アマリージャ - Transfermarkt.comによる指導者データ
- ラウル・アマリージャ - UEFA
- ラウル・アマリージャ - J.League Data Siteによる選手データ
- ラウル・アマリージャ - BDFutbol.com