コンテンツにスキップ

英文维基 | 中文维基 | 日文维基 | 草榴社区

ラオディケ4世

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
ラオディケ4世
Λαοδίκη Δ΄
セレウコス朝シリアの王妃
在位 紀元前196年 - 193年(ラオディケ3世と共同)
紀元前187年 - 175年
紀元前175年 – 163年
別称号 セレウコス朝の主司祭

出生 紀元前3世紀後半
死去 紀元前2世紀前半
配偶者 アンティオコス
  セレウコス4世
  アンティオコス4世エピファネス
子女 ニサ英語版
アンティオコス
デメトリオス1世ソテル
ラオディケ5世
アンティオコス5世エウパトル
ラオディケ6世
家名 セレウコス朝
父親 アンティオコス3世
母親 ラオディケ3世
テンプレートを表示

ラオディケ4世ギリシア語: Λαοδίκη Δ΄, 紀元前3世紀後半 - 紀元前2世紀前半)は、ギリシャの王女、主司祭であり、セレウコス朝の王妃。アンティオコス3世は紀元前193年にメディア王国で彼女の母主司祭ラオディケ3世の後任として彼女を任命した。彼女は後に、彼女の全血兄弟であるセレウコス朝の3人の王と結婚した。

生涯

[編集]

家族と初期の人生

[編集]

ラオディケ4世はマケドニア人とペルシア人の子孫だった。彼女は、セレウコス朝の君主であるアンティオコス3世ラオディケ3世の間に生まれた子供の一人だった[1]。彼女の父方の祖父母は、以前のセレウコス朝君主セレウコス2世ラオディケ2世英語版で、母方の祖父母はポントゥスのミトラダテス2世英語版と妻のラオディケ英語版だった。

ラオディケ4世の両親は、父方の祖父と母親の祖母が共にアンティオコス2世ラオディケ1世英語版の間の子供で、兄妹だったので、いとこ同士であった[2]。彼女はセレウコス朝で生まれ育った。ラオディケ4世はデロスで彼女に捧げられた敬意を表する碑文で記念された[3]

先祖

[編集]
ラオディケ4世の系譜
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
16. (=28.)アンティオコス1世
 
 
 
 
 
 
 
8. (=14.)アンティオコス2世
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
17. (=29.)ストラトニケ
 
 
 
 
 
 
 
4. セレウコス2世
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
18. (=20., 30.)アケウス英語版
 
 
 
 
 
 
 
9. (=15.)ラオディケ1世英語版
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
2. アンティオコス3世
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
20. (=18., 30.)アケウス英語版
 
 
 
 
 
 
 
10. アンドロマクス英語版
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
5. ラオディケ2世英語版
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
1. ラオディケ4世
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
24. ミトラダテス1世英語版
 
 
 
 
 
 
 
12. アリオバルザネス英語版
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
6. ミトラダテス2世英語版
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
3. ラオディケ3世[4]
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
28. (=16.)アンティオコス1世
 
 
 
 
 
 
 
14. (=8.)アンティオコス2世
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
29. (=17.)ストラトニケ
 
 
 
 
 
 
 
7. ラオディケ英語版
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
30. (=18., 20.)アケウス英語版
 
 
 
 
 
 
 
15. (=9.)ラオディケ1世英語版
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

王妃としての最初の統治

[編集]

紀元前196年、彼女の兄である皇太子アンティオコスは後継者として父親によって任命された[5]。その年、ラオディケ4世は彼と結婚した。ラオディケ4世とアンティオコスの結婚は、セレウコス朝で起きる最初の兄妹婚だった[3]。彼らの兄妹結合によりラオディケ4世はアンティオコスとの間にニサ英語版という娘を産んだ[6]。 アンティオコス3世は紀元前193年にラオディケ4世をメディア王国のラオディケ3世に捧げられた州神殿の主司祭として任命した[6][3]。その年の後半に、彼女の兄であり夫が死亡した。家族、特にアンティオコス3世は、彼の死を悲しんだ[3]

2度目の結婚

[編集]

アンティオコス3世は彼女が再び結婚するように手配した。今度は、彼女のもう一人の兄セレウコス4世だった[6]。彼らの結合により3人の子供が産まれた。2人の息子アンティオコスとデメトリオス1世ソテルに、娘のラオディケ5世だった[6]。紀元前187年、アンティオコス3世は死亡し、セレウコス4世は父親の後継となった。彼はセレウスコス朝の王となり、ラオディセ4世はセレウコス朝の女王になった。セレウコス4世が死亡した時、彼らはセレウコス朝の皇室夫婦として紀元前187年から175年まで支配していた[6]。ラオディケ4世が女王としてどの様に統治したのか、同時代の人々が彼女をどのように見ていたかについて、現存している記録はない。紀元前175年頃、ラオディケの最初の息子は王になった[7]。ライディケ4世の肖像画とセレウコス4世、最初の息子アンティオコスを示す紀元前175年の現存しているコインがあり、最初のコインに描かれたセレウコス王と女王となっている[7]

3度目の結婚

[編集]

セレウコス4世が死亡した後、ラオディケ4世は、セレウコス4世の王位を継承した彼女の弟アンティオコス4世エピファネスと結婚した。アンティオコス4世は甥アンティオコスと共謀し、彼の養子を息子として採用しようとしたが、彼は紀元前170年に暗殺された[7]。ラオディケ4世はアンティオコス4世エピファネスとの間に2人の子供を産んだ。息子アンティオコス5世エウパトルと娘ラオディケ6世だった[6]。ラオディケらの最年少の兄弟と長男が共謀したとき、彼女の次男のデメトリオス1世ソテルローマに政治的人質として送られた。アンティオコス4世が死んだ時、ラオディケ4世とアンティオコス4世エピファネスの最初の息子、アンティオコス5世エウパトルはセレウコス王として父親の後継者となった[6]

脚注

[編集]
  1. ^ Laodice III”. Livius (2017年1月4日). 2017年12月17日閲覧。
  2. ^ Antiochus II Theos”. Livius (2017年1月5日). 2017年12月17日閲覧。
  3. ^ a b c d Grainger, A Seleukid prosopography and gazetteer p.48
  4. ^ ラオディケ3世はアンティオコス3世と結婚する前は、ポントゥス王女であった。
  5. ^ Antiochus III the Great”. Livius (2017年1月5日). 2017年12月17日閲覧。
  6. ^ a b c d e f g Laodice IV”. Livius (2017年1月4日). 2017年12月17日閲覧。
  7. ^ a b c de:Laodike (Tochter des Antiochos III.)

参考文献

[編集]

外部リンク

[編集]
ラオディケ4世


存命中

王室の称号
先代
ラオディケ3世と共同
セレウコス朝女王 (シリアの王妃英語版)
紀元前196年-193年
共同統治者 アンティオコス (紀元前210年-193年)
次代
ラオディケ3世
先代
エウボエア
セレウコス朝女王 (シリアの王妃英語版)
187–163 BC
共同統治者 セレウコス4世 (紀元前187年-175年)
アンティオコス4世エピファネス (紀元前175年-163年)
次代
なし
(またはティマルコス英語版の共同統治者)