ラジヴィウ家
ラジヴィウ家 | |
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ラジヴィウ家の「ホルン (Trąby) の紋章」。帝国諸侯の家柄として、黄金の盾に描かれた黒鷲の胸部にホルンの紋章が付けられている。 | |
過去の綴り | ラドヴィラ |
民族 |
リトアニア人、ポーランド人 |
出身地 | リトアニア・ケルナヴェ |
現居住地 | リトアニア、ポーランド、アメリカ合衆国 |
親族 | アスティカス |
ラジヴィウ家(ポーランド語: Radziwiłł [raˈd͡ʑiviww] / リトアニア語: Radvila / ドイツ語: Radziwill / ベラルーシ語: Радзівіл / ラテン語: Radvil)は、リトアニア大公国およびポーランド・リトアニア共和国において、数世紀にわたって権力の中枢にあり国政に重きをなしていた大貴族(マグナート)の家系。リトアニア語読みはラドヴィラ。政治的野心を持ってドイツに接近し1547年より一族全員が神聖ローマ帝国のフュルスト(公爵)を名乗る資格を得ていた。(ただしこの公爵位はポーランド・リトアニア共和国では公式のものではない。ポーランド・リトアニア共和国ではシュラフタはすべて政治的に平等の身分であるという考えがあり、爵位が存在しなかった。)
概要
[編集]近年の研究では、ラドヴィラ家(=ラジヴィウ家)はリトアニアの公に家人として仕える下級貴族の出身だったと考えられ、15世紀に相当な出世をした。彼らはリトアニアの古い貴族アスティカイ家から分かれ、ケルナヴェ近郊に領地を入手した。ラジヴィウ家の始祖として知られるのはラドヴィラ・アスティカスである。その父親クリストパス・アスティカスは1413年のホロドウォ合同の際にトロンビ(ホルン)の紋章を貰い、これが一族の紋章として定着した。最初に「ラドヴィラ」の姓を名乗ったのはラドヴィラ・アスティカスの息子ミカロユス・ラドヴィライティスで、彼の息子たちは3つの系統に枝分かれしたラジヴィウ家のそれぞれの始祖となった。一族の家名は何世紀にもわたってポーランド語の「Radziwiłł」で表記されてきたが、リトアニア語では「Radvila(複数形: Radvilos)」で表記されていた。
ラジヴィウ家は5世紀以上にわたってその存在感と高貴な地位を保っている。一族は15・16世紀にかけて巨万の富を獲得し、1939年に第2次世界大戦が開始されるまでその富を保持し続けた。一族は多くの傑出した政治家、将軍、聖職者、芸術のパトロン、事業家を輩出し、彼らはポーランド、リトアニア、ベラルーシを中心として全欧州を又にかけた活躍を見せて、ヨーロッパの歴史と文化に重要な足跡を残した。
ラドヴィラ・アスティカスの子孫たちは権勢あるマグナートとなり、その名はポーランド・リトアニア共和国において最も高名な大貴族の家系の一つとして記憶されている。ラジヴィウ家はポーランド・リトアニア共和国において貴族共和国体制が最も繁栄を迎えた時期に権力の座を手にした。ラジヴィウ家は1547年12月14日、ポーランド・リトアニア連合の混乱と政治的弱体化を狙う神聖ローマ皇帝カール5世より帝国諸侯(ライヒフュルスト、ポーランドの公爵相当)に叙せられたため、一族に属する者は皆「公」「公女」の称号を以て遇せられた(公の称号はポーランドとリトアニアでは通常、ピャスト朝、ゲディミナス朝ないしリューリク朝の血を引く諸公しか持たなかった)。ただし、同家は17世紀中葉の「大洪水」と呼ばれた戦乱期、ラジヴィウ家が君主として独占支配するリトアニア国家の実現を狙った分離主義者ヤヌシュ・ラジヴィウの野心的な行動が災いして、それまで保っていた富と権力を大幅に失っている。
ラジヴィウ家が建立した建造物で現存する最も古いものは、ヴィージュオノス (Vyžuonos) にあるゴシック様式の教区教会(1406年頃)およびリトアニアの中心部に位置するケダイネイの聖ゲオルギウス聖堂(1445年頃)である。ラジヴィウ家のビルジャイとドゥビンギェイを伝領していた系統は、ドゥビンギェイ城と17世紀後半に築かれたビルジャイ城(いずれもリトアニア)を本拠としていた。この系統は1695年、ルドヴィカ・カロリナ・ラジヴィウの死により断絶した。18世紀以降のラジヴィウ家はネスヴィジとオルィカを伝領する系統のみとなったため、一族の中心的な居所は現在のベラルーシにあるネスヴィジ城となった。他の主な居館や所領を挙げると、ミール城、オルィカ、ビルジャイ、ドゥビンギェイ、シドウォヴィエツ、タウイェナイ、ルブチャ、ポウォネチュカなどである。ポーランド大統領官邸として使用されているワルシャワのラジヴィウ大宮殿はポーランド・リトアニア共和国の首都ワルシャワにおけるラジヴィウ宗家の上屋敷であった。前の所有者であるマグナートのルボミルスキ家から17世紀にラジヴィウ家が購入したこの建物は19世紀にポーランド立憲王国政府がラジヴィウ家から購入、その後第二次世界大戦のワルシャワ蜂起に対するナチス・ドイツの報復で破壊されたが、残された資料を基にワルシャワ市民のボランティアで再建された。
現代のラジヴィウ本家の人々は堅固なポーランド愛国者である。巨大貴族(オルディナト)としての最後の時代の当主はコンスタンティ・ミコワイ・ラジヴィウ2世で、この人は第二次世界大戦の際に自らの莫大な個人財産をなげうちポーランド軍志願兵となってドイツを相手に戦った。彼はドイツ軍の捕虜となったあと脱走に成功、森の中で脱走生活を送り、ドイツがポーランドを占領していた間は対独レジスタンス「国内軍」に下士官として参加し、旧大貴族(マグナート)の人々を集めて物資調達組織を作り、占領者たちに対する抵抗運動を続けた。その長男であるヤン・マチェイ・ラジヴィウは共産主義時代のポーランドでワルシャワの一般市民として暮らした。その長男で、コンスタンティ・ミコワイ2世直系の孫であるドミニク・ラジヴィウはワルシャワ大学を卒業したのち官僚となり、2011年現在はドナルド・トゥスク政権で副財務相を務めている。分家の人々はアメリカ合衆国のニューヨークに拠点を置く富裕な名家で、他の旧マグナート(公的なシュラフタ制度は既に廃止されている)と共に在米ポーランド人団体の活動を通じてポーランド共和国や旧シュラフタ社会との関わりが深い[1]。主に文化・芸術方面で活躍する人材を輩出するカトリック教徒のポーランド系アメリカ人として有名。
系図
[編集]クリストパス・アスティカス | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
ラドヴィラ・アスティカス | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
ミカロユス・ラドヴィライティス | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
ミコワイ | ヤン | イェジ | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
ミコワイ | ミコワイ | バルバラ | ジグムント2世 ポーランド王 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
ミコワイ・クシシュトフ | イェジ | アルブレフト | スタニスワフ | クシシュトフ | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
アレクサンデル・ルドヴィク | アルブレフト・スタニスワフ | ヤヌシュ | クシシュトフ | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
ミハウ・カジミェシュ | ドミニク・ミコワイ | ヤヌシュ | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
カロル・スタニスワフ | ヤン・ミコワイ | ボグスワフ | アンナ・マリア | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
ミハウ・カジミェシュ | マルチン・ミコワイ | ルドヴィカ・カロリナ | カール3世フィリップ プファルツ選帝侯 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
カロル・スタニスワフ | ヒェロニム・ヴィンツェンティ | ミハウ・ヒェロニム | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
ドミニク・ヒェロニム | アントニ・ヘンリク | ミハウ・ゲデオン | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
レフ・ヴィトゲンシュテイン ザイン=ヴィトゲンシュタイン=ザイン侯 | ステファニア | ヴィルヘルム | ボグスワフ・フリデリク | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
アントニ・ヴィルヘルム | フェルディナント | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
ミハウ | ヤヌシュ・フランチシェク | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
ギャラリー
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ドイツ、ベルリンのラジヴィウ家の宮殿でポズナン公国総督を務めたアントニ・ヘンリク・ラジヴィウの私邸。のちにオットー・フォン・ビスマルク私邸として使用され、さらにそののちドイツ第三帝国公文書館とされた。