ランスの戦い
ランスの戦い | |||||||
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30年戦争、フランス・スペイン戦争中 | |||||||
ランスの戦いでレオポルト大公率いるスペイン軍に勝利した大コンデ、ヴェルサイユ宮殿所蔵 | |||||||
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衝突した勢力 | |||||||
フランス王国[1] | スペイン | ||||||
指揮官 | |||||||
コンデ公ルイ2世 | レオポルト枢機卿 | ||||||
戦力 | |||||||
16,000 大砲18門 |
18,000 大砲38門 | ||||||
被害者数 | |||||||
死傷者3,500 |
死傷者3,000 捕虜5,000 |
ランスの戦い(ランスのたたかい、英語: Battle of Lens)は三十年戦争中の1648年8月20日にコンデ公ルイ2世率いるフランス軍がレオポルト枢機卿率いるスペイン軍に勝利した戦闘。同戦争の大規模な戦闘では最後のものであった。
背景
[編集]現代のフランス北部のパ=ド=カレー県に位置するランスはフランドル地方の古くから要塞化された城の1つであり、スペイン領であったが1647年以降フランスに占領されていた。フロンドの乱でフランス貴族がマザラン枢機卿に反乱したためスペインは機会に乗じてランスを奪回して戦争を有利に進もうとした。
経過
[編集]コンデ公はカタルーニャからフランドルまで急いで進軍し、途中のシャンパーニュ、ロレーヌ、パリで急ごしらえの1万6千の軍勢(うち半分以上は騎兵)と大砲18門を集めた。スペインも騎兵が半分以上を占める1万8千の軍勢と大砲38門と、フランスを上回る戦力で対処しようとした。両軍は対峙したが、スペイン軍は高地にあった。スペイン騎兵とフランス前衛が小競り合いをはじめると、それがだんだん激化して全面戦闘に入った。スペイン歩兵はフランス近衛兵連隊を撃破したが、練度で上回るフランス騎兵はスペイン騎兵を破り、戦局のフランス優位を決定した。
影響
[編集]1648年はランスの戦いに関連する重要な事件が2件あったが、その結末は違った[3]。第一に、この勝利はフランス王の高等法院への態度を硬化させた。そのため両者はパリで対立し、フロンドの乱が長期化する結果となった[3]。次に、フランスの勝利は三十年戦争を終わらせた。テュレンヌ子爵、ウランゲル、ケーニヒスマルクの軍勢はウィーンとプラハを脅かし、神聖ローマ皇帝フェルディナント3世を怯えさせた。彼の同盟者であったバイエルン選帝侯マクシミリアン1世は和平を熱望しており、スペイン王フェリペ4世は本軍を失った。事ここに至り、フェルディナント3世には講和の選択肢しか残されていなかった。1641年以降、神聖ローマ帝国はミュンスターでフランス、オスナブリュックでスウェーデンと交渉していたが、ここにきて皇帝はようやく和平を裁可し、1648年10月24日にヴェストファーレン条約が成立した。一方、フランスとスペインの戦争は1659年のピレネー条約締結まで長引いた[4]。
しかし結果として、ランスの戦いにおけるフランスの勝利はその後のさまざまな事件で無駄になった。ルイ14世は国を統治するには若すぎたことに加え、摂政アンヌ・ドートリッシュが自らの地位を固めることに失敗し、戦後すぐにフランスで内戦が勃発した。これはスペインに回復する時間を与えることになった[5]。また、戦勝を祝ってノートルダム大聖堂でテ・デウムが歌われたが暴動が発生し、1649年1月にはルイ14世はパリからの逃亡を余儀なくされた[6]。
脚注
[編集]- ^
- "...the standard of France was white, sprinkled with golden fleur de lis..." (Ripley & Dana 1879, p. 250).
- On the reverse of this plate it says: "Le pavillon royal était véritablement le drapeau national au dix-huitième siecle...Vue du chateau d'arrière d'un vaisseau de guerre de haut rang portant le pavillon royal (blanc, avec les armes de France)" (Vinkhuijzen collection 2011).
- "The oriflamme and the Chape de St Martin were succeeded at the end of the 16th century, when Henry III., the last of the house of Valois, came to the throne, by the white standard powdered with fleurs-de-lis. This in turn gave place to the famous tricolour" (Chisholm 1911, p. 460).
- ^ Mark Traugott (2010). The Insurgent Barricade. University of California Press. ISBN 978-0-520-26632-2 31 January 2015閲覧. "On August 22, Paris learned that French armies under the command of Louis de Bourbon, prince de Condé (known to history as the Grand Condé), had decisively defeated the Spanish army near the town of Lens, in the Pas de Calais"
- ^ a b Mark Traugott (2010). The Insurgent Barricade. University of California Press. ISBN 978-0-520-26632-2 31 January 2015閲覧。
- ^ Stephane Thion (19 January 2013). French Armies of the Thirty Years' War. LRT Editions. p. 33. ISBN 978-2-917747-01-8 28 April 2013閲覧。
- ^ Guthrie, William P.: The Later Thirty Years War: From the Battle of Wittstock to the Treaty of Westphalia. Westport: Greenwood Press, 2007. ISBN 9780313324086, p. 181.
- ^ Parker, Geoffrey: The Army of Flanders and the Spanish Road, 1567-1659: The Logistics of Spanish Victory and Defeat in the Low Countries' Wars. Cambridge: Cambridge University Press, 2004. ISBN 9780521543927, p. 222.
参考文献
[編集]- Chisholm, Hugh, ed. (1911). "Flag". Encyclopædia Britannica (英語). Vol. 10 (11th ed.). Cambridge University Press. pp. 454–463.
- Ripley, George; Dana, Charles A., eds. (1879). "Flag". The American Cyclopædia (英語). Vol. 8. p. 250.
- “The Vinkhuijzen collection of military uniforms: France, 1750-1757”. New York Public Library (25 March 2011). 8 March 2013時点のオリジナルよりアーカイブ。2016年12月21日閲覧。