ラヴレンチー・カルトヴェリシュヴィリ
ラヴレンチー・ヨシフォヴィチ・カルトヴェリシュヴィリ Лаврентий Иосифович Картвелишвили ლავრენტი იოსების ძე ქართველიშვილი | |
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生年月日 | 1890年4月28日 |
出生地 | ロシア帝国クタイス県クタイス郡ヤネチ |
没年月日 | 1938年8月22日(48歳没) |
死没地 |
ソビエト連邦 ロシア・ソビエト連邦社会主義共和国、モスクワ、コムナルカ射撃場 |
出身校 | キエフ商科学院(中退) |
所属政党 | ボリシェヴィキ |
親族 | ヴァルラム(弟) |
在任期間 | 1931年9月12日 - 11月14日 |
在任期間 | 1927年6月 - 1929年 |
中央執行委員会議長 | ミハ・ツハカヤ[1] |
在任期間 | 1930年6月15日 - 12月13日 |
在任期間 | 1930年11月19日 - 1931年11月9日 |
在任期間 | 1933年3月 - 1937年1月15日 |
その他の職歴 | |
全連邦共産党(ボ)クリミア州委員会 第一書記 (1936年12月28日 - 1937年7月14日) |
ラヴレンチー・ヨシフォヴィチ(イオセビス・ゼ)・カルトヴェリシュヴィリ(ロシア語: Лаврентий Иосифович Картвелишвили、グルジア語: ლავრენტი იოსების ძე ქართველიშვილი、1890年4月28日 - 1938年8月22日)は、グルジア人のボリシェヴィキ。ラヴレンチエフ (Лаврентьев[2], ლავრენტიევი[3]) の党名を持つ。
生涯
[編集]前半生
[編集]1890年4月28日(ユリウス暦16日)、ロシア帝国クタイス県ヤネチ (ka) の農家に生まれ、1905年から革命運動に関わり始め[2]、1910年にボリシェヴィキに入党した[4]。翌1911年から1914年までキエフ商科学院に学ぶも中退し[5]、1915年から翌1916年まではサラトフで党務に就いていた[2]。同年に逮捕され有罪判決を受けたが、1917年3月19日に恩赦された[5]。
同年から翌1918年までボリシェヴィキ・キエフ市委員会、1918年5月から労働者共産党臨時全ウクライナ委、11月から翌1919年4月まではロシア共産党オデッサ地下州委の各メンバーを務め、同月から8月まではウクライナ共産党オデッサ州委責任書記を務めた[5]。また、オデッサ市委、オデッサ革命委メンバーとして[2]、党の地下出版所を指導した[6]。同年には赤軍第12軍南部軍集団革命軍事会議のメンバーでもあった[5]。翌1920年には『コミュニスト』紙を編集し、後には『ムナトビ』(ka) 誌の初代編集者となっている[7]。1920年2月から翌1921年まではウクライナ共産党オデッサ県 (ru) 委組織部部長、1921年から1923年まではキエフ県委責任書記、1923年3月20日からグルジア共産党中央委組織・指導部部長、同日から翌1924年まで同委書記および局員、1923年12月23日から1924年まではロシア共産党ザカフカース地方委第二書記、同年2月から11月まで再度ウクライナ共産党キエフ県委責任書記を務めている[5]。
栄達と失墜
[編集]同年12月11日から1927年6月7日まではロシア共産党ザカフカース地方委第三書記、1925年から1927年6月13日までは再度グルジア共産党中央委書記、同月から1929年まではグルジア社会主義ソビエト共和国人民委員会議議長、1929年11月まではウクライナ軍管区政治部部長、同月21日から翌1930年6月5日まではウクライナ共産党中央委書記、12月13日までは同委政治局員および組織局員に就き、また6月15日から12月13日までは第二書記、7月13日から1934年1月26日までは全連邦共産党中央委員候補でもあった[5]。
1930年11月19日から翌1931年11月9日まではザカフカース地方委第一書記、同年9月12日から11月14日まではグルジア共産党中央委第一書記を務めた[5]。しかし、同年にモスクワで開かれたザカフカース地方委幹部会議において、地方委の次期第一書記にラヴレンチー・ベリヤを据えることを提案したヨシフ・スターリンに対し、カルトヴェリシュヴィリは「私はあの詐欺師と一緒に働くつもりはない」と言い放った[8](ニキータ・フルシチョフによれば、ベリヤとカルトヴェリシュヴィリは活動家時代から不仲であったという[9])。この発言が本でカルトヴェリシュヴィリは左遷され[8]、同年12月から1933年3月までは連邦共産党西シベリア地方委第二書記、同月から1937年1月まで独立赤旗極東軍軍事ソビエトメンバー、同月15日まで党極東地方委第一書記に就いた[5]。
1934年2月10日から1937年6月25日までは全連邦共産党中央委員に就き、1936年12月28日から1937年7月14日まではクリミア州委第一書記を務めた[5]。ウクライナ共産党中央委には1918年7月12日から9月9日まで、1924年5月16日から1925年1月13日まで、1929年11月21日から1934年1月18日までの三度属し[5]、ソビエト連邦中央執行委幹部会メンバーも務め[7]、連邦党大会には第10回から第17回まで(第12回を除く)出席した[2]。
粛清
[編集]しかし、カルトヴェリシュヴィリはクリミア州委第一書記を務めていた1937年6月29日に逮捕され[5]、党からも除名された[4]。逮捕後にはベリヤがスターリンに対し、カルトヴェリシュヴィリのグルジアでの「右翼活動」についてのメモを送り、また同時期に取調べを受けていたパーヴェル・ポストゥイシェフも共謀者としてカルトヴェリシュヴィリの名を挙げた[9]。
カルトヴェリシュヴィリは翌1938年8月22日に連邦最高裁軍事参議会によってスパイ罪で有罪判決を下され、同日コムナルカ射撃場で処刑された[10]。極東地方地域共同農場部輸送局局長を務めていた弟のヴァルラムも処刑され[11]、妻も弾圧された[8]。その後、カルトヴェリシュヴィリは1956年に名誉回復と党籍回復がなされた[4]。キエフの通りにはカルトヴェリシュヴィリの名が付けられていたが、2015年に「ヴォロドゥイームィル・ポコトゥイロ (uk) 通り」(uk) へと改称された[12]。
脚注
[編集]- ^ “Высшие органы государственной власти ССР Грузия - Грузинской ССР - Республики Грузия”. Справочник по истории Коммунистической партии и Советского Союза 1898 - 1991. knowbysight.info. 2018年4月17日閲覧。
- ^ a b c d e Картвелишвили // Италия — Кваркуш. — М. : Советская энциклопедия, 1973. — (Большая советская энциклопедия : [в 30 т.] / гл. ред. А. М. Прохоров ; 1969—1978, т. 11).
- ^ “ლავრენტიევი (ქართველიშვილი) ლავრენტი იოსების ძე”. საქართველოს პარლამენტის ეროვნული ბიბლიოთეკა. 2018年4月17日閲覧。
- ^ a b c Залесский К. А. (2002). Империя Сталина: Биографический энциклопедический словарь. М.: Вече. ISBN 5-7838-0716-8。
- ^ a b c d e f g h i j k “Картвелишвили Лаврентий Иосифович”. Справочник по истории Коммунистической партии и Советского Союза 1898 - 1991. knowbysight.info. 2018年4月16日閲覧。
- ^ “БОЛЬШЕВИСТСКАЯ ПОДПОЛЬНАЯ ТИПОГРАФИЯ”. ОДЕССКИЕ КАТАКОМБЫ. 2018年4月16日閲覧。
- ^ a b “ლავრენტი ქართველიშვილი”. საქართველოს პარლამენტის ეროვნული ბიბლიოთეკა. 2018年4月17日閲覧。
- ^ a b c Торчинов В. А., Леонтюк А. М. (2000). Вокруг Сталина: Историко-биографический справочник (3000 экз ed.). СПб.: Филологический факультет СПбГУ. ISBN 5-8465-0005-6。
- ^ a b Ферр Г. [in 英語] (2007). Антисталинская подлость. Загадка 1937 года (5000 экз ed.). М.: Алгоритм. ISBN 978-5-9265-0478-8。
- ^ “Лаврентьев Лаврентий Иосифович. Книга Памяти Жертв Коммунистического Террора”. Все-Адреса.Орг. 2018年4月16日閲覧。[リンク切れ]
- ^ “ქართველიშვილი ვარლამ იოსების ძე”. საქართველოს პარლამენტის ეროვნული ბიბლიოთეკა. 2018年4月17日閲覧。
- ^ “Картвелишвили стала Покотило.”. Sezamka. (2016年3月5日) 2018年4月17日閲覧。
党職 | ||
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先代 サムソン・マムリヤ |
グルジア共産党(ボ)中央委員会第一書記 1931年9月12日 - 11月14日 |
次代 ラヴレンチー・ベリヤ |
先代 アレクセイ・メドヴェージェフ |
ウクライナ共産党(ボ)中央委員会第二書記 1930年6月15日 - 12月13日 |
次代 ヴァシリー・ストロガノフ |
先代 ベソ・ロミナゼ |
全連邦共産党(ボ)ザカフカース地方委員会第一書記 1930年11月19日 - 1931年11月9日 |
次代 マミヤ・オラヘラシュヴィリ |
先代 セルゲイ・ベルガヴィノフ |
全連邦共産党(ボ)極東地方委員会第一書記 1933年3月 - 1937年1月15日 |
次代 ヨシフ・ヴァレイキス |
先代 ボリス・セミョーノフ |
全連邦共産党(ボ)クリミア州委員会第一書記 1936年12月28日 - 1937年7月14日 |
次代 ニコライ・シチュチュキン |
先代 ボリス・ミハイロフ |
ロシア共産党(ボ)ザカフカース地方委員会第二書記 1923年12月23日 - 1924年 |
次代 アマヤク・ナザレチャン |
先代 マクシミリアン・ザイツェフ |
全連邦共産党(ボ)西シベリア地方委員会第二書記 1931年12月 - 1933年3月 |
次代 クラヴディヤ・ニコラエヴァ |
先代 なし |
ロシア共産党(ボ)ザカフカース地方委員会第三書記 1925年12月から全連邦共産党 1924年12月11日 - 1927年6月7日 |
次代 ミハイル・カヒアニ |
先代 ニコライ・ゴルベンコ |
ウクライナ共産党(ボ)キエフ県委員会責任書記 1921年 - 1923年 |
次代 ウラジーミル・ロギノフ |
先代 ヨシフ・ヴァレイキス |
ウクライナ共産党(ボ)キエフ県委員会責任書記 1924年2月 - 11月 |
次代 パーヴェル・ポストゥイシェフ |
公職 | ||
先代 シャルヴァ・エリアヴァ |
グルジア社会主義ソビエト共和国人民委員会議議長 1927年6月 - 1929年 |
次代 フィリップ・マハラゼ |
- ソビエト連邦共産党中央委員会の人物
- ソビエト連邦中央執行委員会幹部会の人物
- 全連邦共産党(ボリシェヴィキ)ザカフカース地方委員会第一書記
- 全連邦共産党(ボリシェヴィキ)ザカフカース地方委員会第二書記
- 全連邦共産党(ボリシェヴィキ)ザカフカース地方委員会第三書記
- 全連邦共産党(ボリシェヴィキ)極東地方委員会第一書記
- ソビエト連邦共産党・ウクライナ共産党クリミア州委員会第一書記
- ウクライナ共産党中央委員会第二書記
- ウクライナ共産党(ボリシェヴィキ)キエフ県委員会責任書記
- グルジア共産党中央委員会第一書記
- グルジア・ソビエト社会主義共和国の首相
- ウクライナの革命家
- ソビエト連邦の軍人
- ロシアの新聞編集者
- 雑誌編集者
- ロシア社会主義連邦ソビエト共和国の軍人
- オールド・ボリシェヴィキ
- 大粛清犠牲者
- クタイス県出身の人物
- ロシア帝国のグルジア人
- 1890年生
- 1938年没