リオデジャネイロバスジャック事件
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リオデジャネイロバスジャック事件 | |
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場所 | リオデジャネイロ、ボタニコ公園、バルケ・ラージェ前 |
日付 |
2000年6月12日 14時30分(UTC) – 18時50分 |
標的 | バス174号線の路線バス |
攻撃手段 | バスジャック |
兵器 | 拳銃 |
死亡者 | 2人(犯人1名、乗客1名) |
犯人 | サンドロ・ド・ナシメント(事件当時24歳) |
動機 | 強盗 |
攻撃側人数 | 1人 |
対処 | 警察が犯人を逮捕するも、窒息死させる |
リオデジャネイロバスジャック事件(リオデジャネイロバスジャックじけん)は、2000年6月12日にブラジルのリオデジャネイロのジャルディム ボタニコ地区で発生したバスジャック事件。
サンドロ・バルボーサ・ド・ナシメント(事件当時24歳)が路線バスに乗り込んで乗客に銃を突きつけ、およそ4時間にわたって中に立てこもった[1]。 サンドロは警察に投降するため車外に出た際に取り押さえられて窒息死し、警察の発砲で人質1名が死亡した。
カンデラリア教会虐殺事件の生存者の一人であり、ホセ・パディーリャ監督によるドキュメンタリー映画『バス174』でその半生が描かれた。
この事件は、ポータルサイトブラジル・オンライン(BOL) [2]とIG [3]によって、ブラジルに「衝撃を与えた」犯罪として挙げられた。
事件の経緯
[編集]事件現場となった路線バス174号線 (現在は 105 号線 - トロンカル 5 号線) (セントラル-ガベア)は、6月12日14時10分頃に最寄りのバス停を発車し、リオの中心部に向かう予定だった。犯人であるサンドロは、14時25分頃にバスに乗り込んだ[4]。
14時30分頃、乗客の一人が彼が38口径のリボルバー銃を所持しているのを発見して通報した。通報を受けた警察はバスを包囲し、サンドロに今すぐバスを降りるよう警告した。するとサンドロは逆上し、近くにいた女性Aに銃を突きつけ、「お前たちが降りろ。さもないとこいつの頭を吹っ飛ばすぞ」と警告した。運転手と車掌は車両を放棄し、乗客の一部も窓や後部ドアから飛び降りて逃走したが、残る乗客10人が人質に取られた[5]。
バスの周囲はたちまち大混乱に陥り、やがて騒ぎを聞きつけた野次馬やマスコミが集まって来て、テレビでの生中継が始まった。15時50分頃、サンドロは車外の報道陣に向けて1発発砲。逃走用の車を用意することを要求した。
午後4時2分、人質の男性(35歳)が車の窓から脱出、サンドロの共犯容疑で一時拘束される。 また16時30分、サンドロは乗客の男性1人を解放した。この男性は商学部の学生であった。バスから降りた別の男性(28)は、「サンドロは麻薬をやっているようで、大声で叫んでいる」と話した。
Aに銃を突きつけつつ、窓から身を乗り出して要求を伝えるサンドロに対し、軍警察は特殊部隊の出動を要請した。やがて駆け付けた特殊部隊「BOPE」(ボッピ)がバスを取り囲み、スナイパーが狙撃態勢に入った。しかしながら、生中継が行われていることで国民の目を気にした警察は発砲に踏み切ることができず、事態は長期化した。間もなくサンドロは別の女子大学生B(23)を人質に取ると、彼女に口紅で窓に「彼は悪魔と契約している」「午後6時に人質全員を殺害する」などと書かせた。サンドロは再び窓から身を乗り出すと、警察に手榴弾とライフルを要求し、Bの殺害を繰り返し示唆した[5]。
17時24分、脳卒中を患っていた女性Cが解放された。Cは事件後、脳卒中の悪化によって左半身麻痺と言語障害の後遺症が残ったのだという[4][6]。なおもBを人質を取るサンドロはテレビカメラに向かい、「俺を映してくれ。俺はカンデラリアにいた!」「警察は卑怯者だ!」「俺には失うものは何もない」と繰り返した[5]。
17時38分(40分とも)、サンドロは別の女性を人質に取ると、メッセージを書かせたBの上半身に布を被せて床に跪かせ、1発発砲した。車内の乗客は悲鳴を上げ、人質女性は「Bは殺された。床が血だらけになってる」と叫んだ(実際はこのときBは殺害されておらず、人質たちは皆演技をしていた(後述))[1][5][6]。
18時44分、サンドロは松葉杖をついた男性1人を解放。その直後の45分、サンドロは突然人質女性D(20)を連れてバスを降りる。サンドロはDの髪を掴みながら、「これが交渉の最後のチャンスだ」「さもなければDを殺して自殺する」と警告した。バスの影に隠れていたBOPE隊員1名が銃を構えつつ接近し、発砲しながら飛びかかってサンドロを取り押さえた。しかしこの銃弾は狙いを外し、Dの顔をかすめた。またサンドロは暴れながら銃を3発発砲していずれもDに命中、計4発を受けたDは病院に搬送されるも死亡した[1][6]。
見物人の群衆はバスに向かって一斉に殺到した。サンドロは警官に噛みつくなどして激しく抵抗しつつもパトカーに押し込まれ、首を締め付けられたことで窒息死した[5]。
事件後
[編集]バス内に突入した警官たちにより、バス内の人質は全員が解放された。射殺されたとされていたB含め全員が無傷であった。乗客たちは事件の最中、サンドロから「誰も殺さず、傷つけない」と告げられていたのである。またサンドロがBを銃撃した際も、「100まで数えてから撃つが殺さない」と警告された後、狙いを外して体の直ぐ側を撃たれていた。そして乗客たちの悲鳴もすべて、演技であったと判明している[5]。
事件後、サンドロを窒息死させた警察官は殺人容疑で刑事裁判にかけられたが、無罪判決を受けた。バス路線の番号「174」は欠番となり、2001年11月に「158」に変更された後「143」をへて2016年2月に「トランク5」に変更された。
死亡した女性Dはフォンタレザの墓地に埋葬され、葬儀には3000人以上が参列した[7]。一方サンドロは2000年6月14日にリオデジャネイロの墓地に埋葬された。葬儀に参列したのは、彼の母を名乗る叔母だけであった[8]。
犯人
[編集]脚注
[編集]- ^ a b c “Terra - Cronologia do sequestro de ônibus no Rio”. 02/05/2009閲覧。
- ^ “Relembre 22 crimes que chocaram o Brasil”. Bol. Uol (30 de julho de 2015). 5/8/2019時点のオリジナルよりアーカイブ。14 de agosto de 2019閲覧。
- ^ “Crimes famosos: relembre crimes que chocaram o país”. Portal IG. 27/5/2019時点のオリジナルよりアーカイブ。14 de agosto de 2019閲覧。
- ^ a b “Cronologia do seqüestro de ônibus no Rio”. www.terra.com.br. 2024年8月14日閲覧。
- ^ a b c d e f “「史上最悪バスジャック犯」の悲しすぎる真実”. 東洋経済オンライン (2018年11月2日). 2024年8月14日閲覧。
- ^ a b c “Caso Ônibus 174 - Crimes - iG”. web.archive.org (2018年7月9日). 2024年8月17日閲覧。
- ^ “Folha Online - Cotidiano - Seqüestro do ônibus 174 terminou com duas mortes em 2000 - 10/11/2006”. www1.folha.uol.com.br. 2024年8月27日閲覧。
- ^ “Folha Online - Cotidiano - Sequestrador do ônibus é enterrado como indigente no Rio - 14/07/2000”. www1.folha.uol.com.br. 2024年8月27日閲覧。