リチャード・フィッツウィリアム (第6代フィッツウィリアム子爵)
第6代フィッツウィリアム子爵リチャード・フィッツウィリアム(英語: Richard FitzWilliam, 6th Viscount FitzWilliam KB PC (Ire) FRS FSA、1711年7月24日(洗礼日) – 1776年5月25日)は、アイルランド貴族。
生涯
[編集]第5代フィッツウィリアム子爵リチャード・フィッツウィリアムとフランシス・シェリー(Frances Shelley、1771年11月11日没、第3代準男爵ジョン・シェリーの娘)の息子として生まれ、1711年7月24日にダブリンで洗礼を受けた[1]。
1728年2月27日から1776年5月25日までレンスター副提督を務めた[2]。
1733年11月18日にコルネットとして王立騎兵連隊に入隊、義兄にあたる第9代ペンブルック伯爵ヘンリー・ハーバートの部下として従軍した[1]。1743年にはドイツを転戦した[1]。
1743年6月6日に父が死去すると、フィッツウィリアム子爵の爵位を継承、1751年10月23日にアイルランド貴族院議員に正式に就任した[1]。1744年5月28日にバス勲章を授与され、1746年6月6日にアイルランド枢密院の枢密顧問官に任命された[1]。
1747年12月17日に王立協会フェローに選出され[3]、翌1748年2月23日にはロンドン考古協会フェローに選出された[1]。
1776年5月25日に死去、28日にダブリン県のドニーブルック墓地に埋葬された[1]。長男リチャードが爵位を継承した[1]。妻のキャサリンは1786年3月8日に死去、15日にリッチモンドで埋葬された[1]。
家族
[編集]1744年5月3日、ウェストミンスターでキャサリン・デッカー(Catherine Decker、1710年頃 – 1786年3月8日、初代準男爵マシュー・デッカーの娘)と結婚[1]、下記の子女を儲けた。
- リチャード(1745年 – 1816年) - 第7代フィッツウィリアム子爵、生涯未婚。遺言状でフィッツウィリアム美術館を創設したことで知られる
- ウィリアム(1749年 – 1810年)
- ジョン(1752年 – 1830年) - 第8代フィッツウィリアム子爵、生涯未婚
- トマス(1755年 – 1833年) - 第9代フィッツウィリアム子爵、子供なし
脚注
[編集]- ^ a b c d e f g h i j Cokayne, George Edward; Gibbs, Vicary; Doubleday, H. Arthur, eds. (1926). Complete peerage of England, Scotland, Ireland, Great Britain and the United Kingdom, extant, extinct or dormant (Eardley of Spalding to Goojerat) (英語). Vol. 5 (2nd ed.). London: The St. Catherine Press, Ltd. pp. 528–529.
- ^ "Vice Admirals of the Coasts from 1660". Institute of Historical Research (英語). 2006年9月28日時点のオリジナルよりアーカイブ。2019年7月15日閲覧。
- ^ "Fitzwilliam; Richard (1711 - 1776); 6th Viscount Fitzwilliam of Meryon". Record (英語). The Royal Society. 2019年7月15日閲覧。
名誉職 | ||
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先代 フィッツウィリアム子爵 |
レンスター副提督 1728年 – 1776年 |
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アイルランドの爵位 | ||
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