コンテンツにスキップ

英文维基 | 中文维基 | 日文维基 | 草榴社区

エドマンド・テューダー (リッチモンド伯)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
エドマンド・テューダー
Edmund Tudor
初代リッチモンド伯
在位 1452年 - 1456年

出生 1430年
イングランド王国の旗 イングランド王国ハートフォードシャー、マッチ・ハダム
またはベッドフォードシャー、ハダム
死去 1456年11月1日
ウェールズの旗 ウェールズ、カーマーセン城
埋葬 ウェールズの旗 ウェールズ聖デイヴィッド大聖堂
配偶者 マーガレット・ボーフォート
子女 ヘンリー7世
家名 テューダー家
父親 オウエン・テューダー
母親 キャサリン・オブ・ヴァロワ
テンプレートを表示

初代リッチモンド伯エドマンド・テューダー(Edmund Tudor, 1st Earl of Richmond, 1430年頃 - 1456年11月1日)は、イングランドの貴族。オウエン・テューダーキャサリン・オブ・ヴァロワフランスシャルル6世の娘でヘンリー5世の未亡人)の長男でベッドフォード公ジャスパー・テューダーの兄、ランカスター朝最後の国王であるヘンリー6世の異父弟、テューダー朝の始祖である国王ヘンリー7世の父。

生涯

[編集]

エドマンド・テューダーは、ハートフォードシャーのマッチ・ハダム(Much Hadham)もしくはベッドフォードシャーのハダム(Hadham)で、オウエン・テューダーとキャサリン・オブ・ヴァロワの息子として生まれた。彼の両親が密かに結婚して、合法的に生まれてきた子なのかどうかは分かっていない。事実はともかくとして、1437年に母が亡くなった後、サフォーク伯ウィリアム・ド・ラ・ポールの姉妹でバーキング女子修道院長キャサリン・ド・ラ・ポールに引き取られ養育、異父兄であるヘンリー6世からは1452年にリッチモンド伯に叙爵・認知された。弟ジャスパーもペンブルック伯に叙された[1][2]

1455年、エドマンドはマーガレット・ボーフォートサマセット公ジョン・ボーフォートの娘)と結婚した。彼女はその時12歳であって、翌1456年に妊娠した。しかしながら、薔薇戦争の始まりでエドマンドはヨーク派ウィリアム・ハーバート(またはウォルター・デヴルー)によって捕らわれ、南ウェールズのカーマーセン城に収監された。そしてそこで伝染病にかかって亡くなった[1][3]

エドマンドの唯一の子であるヘンリーが生まれたのは、その2ヵ月後のことである。

脚注

[編集]
  1. ^ a b 森、P281。
  2. ^ 尾野、P32 - P33、ロイル、P160、P209、桜井、P193 - P195。
  3. ^ 尾野、P33 - P34、ロイル、P228、桜井、P195 - P198。

参考文献

[編集]
爵位・家督
先代
新設
リッチモンド伯
1452年 - 1456年
次代
ヘンリー・テューダー