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リットン伯爵

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
リットン伯爵
Earl of Lytton

紋章記述

Arms:Quarterly: 1st and 4th, Ermine on a Chief dancettée Azure two Ducal Coronets Or a Canton Argent charged with a Rose Gules (Lytton); 2nd and 3rd, Gules on a Chevron Argent between three Eaglets regardant Or as many Cinquefoils Sable (Bulwer) Crests:1st: A Griffin's Head erased Ermine eared and maned Or; 2nd: A Bittern in flags all proper; 3rd: An Eagle regardant Argent holding in the beak a Branch of Laurel Vert Supporters:On either side an Angel proper each holding in the exterior hand an Eastern Crown Or
創設時期1880年4月28日
創設者ヴィクトリア
貴族連合王国貴族
初代2代男爵ロバート・ブルワー=リットン
現所有者5代伯ジョン・リットン英語版
相続人ネブワース子爵フィリップ・リットン
付随称号下記を参照。
現況存続
邸宅ニュービルディング・プレイス
旧邸宅ネブワース・ハウス
モットーこれが勇者の務め
(Hoc Virtutis Opus)

リットン伯爵: Earl of Lytton)はイギリス伯爵、貴族。連合王国貴族爵位インド総督を務めた政治家・外交官の第2代リットン男爵ロバート・ブルワー=リットンが1880年に叙位されたことに始まる。

本項においては、伯位の前身となったリットン男爵に関しても触れる。

歴史

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初代男爵E.ブルワー=リットンヘンリー・ウィリアム・ピッカーズギル画)
初代リットン伯爵ロバート・ブルワー=リットントマス・アナン撮影)
伯爵家の旧邸宅ネブワース・ハウス

その祖エドワード・ブルワー=リットン(1803-1873)は、代表作『ポンペイ最後の日』を著した小説家にして、第14代ダービー伯爵エドワード・スミス=スタンリー第2次内閣植民地大臣を務めた政治家である[1]。彼は1838年(ネブワースの)準男爵(Baronet, of Knebworth)を授けられたのち[2][3]1866年にはハートフォード州ネブワースのリットン男爵(Baron Lytton, of Knebworth in the County of Hertford)に叙された[1][2][4]。なお、彼の出生時の姓は「ブルワー」であったが、1844年2月20日に勅許を得て、母方の姓を加えた「ブルワー=リットン」に変更している[2][5]。 その子である2代男爵ロバート(1831-1891)は詩人や外交官として活動した[2]。彼は襲爵後の1876年インドの総督副王)に任命された[2][6]。その副王在職中[註釈 1]に、バーラクザイ朝アフガニスタンへ送った英使節が拒絶されたことがきっかけで第2次アフガン戦争が勃発した[8]。イギリス側は当初の目論見に反して苦戦し、首相ベンジャミン・ディズレーリは総選挙に敗れて退陣、2代男爵も副王を1880年に辞職した[8][9]。彼は同年にリットン伯爵(Earl of Lytton)に昇叙するとともに、ハートフォード州ネブワースのネブワース子爵(Viscount Knebworth, of Knebworth in the County of Hertford)を授けられた[2][6][8][10]。ロバートはその後、在フランスイギリス大使となり、赴任先のパリで死去した[8]。爵位は長男のヴィクターが継承した[2][6]

2代伯ヴィクターは父同様に政治家で、1920年からインド省政務次官英語版を、1922年からベンガル州知事英語版を務めたほか、1925年には短期間ながらインド副王となった[6]。また、1930年代初めにリットン調査団の団長として満州事変の調査を行なった[6][11]。2代伯の男子はともに早世したため、伯位は弟のネヴィルが相続した[6][12]。一方、伯爵家邸宅のネブワース・ハウスは娘が相続して、その後はコボールド男爵家に渡った。

3代伯ネヴィル(1879-1951)は画家であり、イギリスやフランスで肖像画や風景画を発表した[6][13]。また1908年ロンドンオリンピックジュ・ド・ポーム競技に参加、銅メダルを獲得した[13]

4代伯ノエル(1900-1985)は1951年に父親からリットン伯爵位を、1957年には母ジュディス英語版[註釈 2]からウェントワース男爵英語版及びル・ディスペンサー男爵位をそれぞれ相続した[6]。また、彼は1925年にその家名を「リットン=ミルバンク」に改めたが[15]、後の1951年に「ミルバンク」を取り除いている[16][17]

その子である5代伯ジョン(1950-)が2020年現在のリットン伯爵家現当主である。

現当主の保有爵位 / 準男爵位

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現当主である第5代リットン伯爵ジョン・リットン英語版は、以下の爵位を有する[6]

一覧

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第2代リットン伯爵ヴィクター・ブルワー=リットン

リットン男爵 (1866年)

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リットン伯爵 (1880年)

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脚注

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註釈

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  1. ^ 彼の副王在職中には第二次アフガン戦争のほか、大飢饉が発生したが、これが天災か人災かは論争の対象となっている[7]
  2. ^ ジュディスは第16代ウェントワース女男爵であり、第15代ウェントワース女男爵アン・キング英語版をその母に持つ[14]

出典

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  1. ^ a b Stephen, Leslie (1893). "Lytton, Edward George Earle Lytton Bulwer-" . In Lee, Sidney (ed.). Dictionary of National Biography (英語). Vol. 34. London: Smith, Elder & Co. p. 380-387.
  2. ^ a b c d e f g Arthur G.M. Hesilrige. “Debrett's peerage, and titles of courtesy, in which is included full information respecting the collateral branches of Peers, Privy Councillors, Lords of Session, etc : Free Download, Borrow, and Streaming” (英語). Internet Archive. p. 597. 2020年7月12日閲覧。
  3. ^ "No. 19631". The London Gazette (英語). 3 July 1838. p. 1488. 2020年7月12日閲覧
  4. ^ "No. 23137". The London Gazette (英語). 13 July 1866. p. 3984. 2020年7月12日閲覧
  5. ^ "No. 20318". The London Gazette (英語). 20 February 1844. p. 580. 2020年7月12日閲覧
  6. ^ a b c d e f g h i Lytton, Earl of (UK, 1880)”. www.cracroftspeerage.co.uk. 2020年7月12日閲覧。
  7. ^ Powell, Christopher (2011-06-15) (英語). Barbaric Civilization: A Critical Sociology of Genocide. McGill-Queen's Press - MQUP. pp. 238–245. ISBN 9780773585560. https://books.google.com/books?id=v3Qm4pWlVNsC&pg=PA238&lpg=PA238&dq=1876+famine,+genocide&source=bl&ots=h2HC2vNegz&sig=8kkn3xtaWT6DdLTMwfQfL0q2GN0&hl=en&sa=X&ved=0ahUKEwinwPvj3pzaAhUHq1kKHU7dBkA4ChDoAQg5MAQ#v=onepage&q=1876%20famine,%20genocide&f=false 
  8. ^ a b c d Garnett, Richard (1893). "Lytton, Edward Robert Bulwer" . In Lee, Sidney (ed.). Dictionary of National Biography (英語). Vol. 34. London: Smith, Elder & Co. p. 387-392.
  9. ^ ブレイク男爵 著、谷福丸 訳、灘尾弘吉監修 編『ディズレイリ』大蔵省印刷局、1993年(平成5年)、825頁。ISBN 978-4172820000 
  10. ^ "No. 24838". The London Gazette (英語). 27 April 1880. p. 2725. 2020年7月12日閲覧
  11. ^ 黄, 自進. “満洲事変をめぐる列強の態度と国際公議の醸成” (pdf). 立命館大学. p. 12. 2020年7月13日閲覧。
  12. ^ “Obituary: Lord Lytton”. The Times (The Times Digital Archive): p. 6. (27 October 1947) 
  13. ^ a b Mosley, Charles, ed (2003). Burke's Peerage, Baronetage & Knighthood. 2 (107 ed.). Burke's Peerage & Gentry. p. 2441. ISBN 0-9711966-2-1 
  14. ^ Wentworth, Baron (E, 1529)”. www.cracroftspeerage.co.uk. 2020年7月12日閲覧。
  15. ^ "No. 33026". The London Gazette (英語). 3 March 1925. p. 1572. 2020年7月13日閲覧
  16. ^ “Lady Anne Lytton”. The Times (The Times Digital Archive): p. 16. (28 June 1979) 
  17. ^ Supplement No.39225”. London Gazette. p. 2669 (11 May 1951). 2020年7月13日閲覧。

関連項目

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外部リンク

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