リヤード・アッ=スルフ
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リヤード・アッ=スルフ رياض الصلح | |
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リヤード・アッ=スルフ | |
生年月日 | 1894年 |
出生地 | オスマン帝国、サイダー |
没年月日 | 1951年7月17日 |
死没地 | ヨルダン、アンマン |
出身校 | パリ大学 |
配偶者 | ファイザ・アル=ジャビーリ |
第16代レバノン共和国首相 | |
在任期間 | 1943年9月25日 - 1945年1月10日 |
大統領 | ビシャーラ・アル=フーリー |
第20代レバノン共和国首相 | |
在任期間 | 1946年12月14日 - 1951年2月14日 |
大統領 | ビシャーラ・アル=フーリー |
リヤード・アッ=スルフ(アラビア語: رياض الصلح, ラテン文字転写: Riad as-Solh、riyāḍ al-ṣulḥ、1894年 - 1951年7月17日)は、レバノン共和国の政治家。首相を2期務めた。
スンナ派ムスリムの政治リーダーであり、レバノン独立闘争の中で最も重要な人物であるのと同時に、様々な宗派が存在するレバノンにおいて、独立のために宗派間の協力を可能にする個性を持った人物として評価されるべきである。
生涯
[編集]レバノン南部サイダー(シドン)に生まれる。パリ大学で法律と政治学を学んだ[1]。
第1次スルフ内閣は独立直後の1943年から約1年半続き、第2次スルフ内閣は、マロン派信徒の大統領であるビシャーラ・アル=フーリーと協力する上での宗派間のバランスを図った内閣であった。フーリーは、ムスリムの意見を集約する手腕に長けていたスルフを評価しており、ムスリムもまた、スルフが存在している限り、自らの利益が政策に反映されることもあって、大きな信頼を寄せていた。
しかし1951年7月、ヨルダン訪問中のスルフは、シリア社会民族党の党員によって暗殺されてしまった。スルフの死によって、民族間のバランスの上に立っていたフーリー政権は、ムスリムの支持を徐々に失っていき、ドゥルーズ出身のカマール・ジュンブラートの台頭を許すこととなった。
娘のムナー(モナ)は、サウジアラビア国王アブドゥルアズィーズ・イブン・サウードの息子のタラール王子と結婚し、アル=ワリード・ビン・タラール王子を産んだ[2]。末娘のライラは、アル=ワリード・ビン・タラール人道財団の副事務局長で、元レバノン産業大臣[3]である。
脚注
[編集]- ^ “Riad al-Solh commemorated with launch of biography”. The Daily Star. (2010年3月6日) 2012年11月1日閲覧。
- ^ “HRH Prince Alwaleed Bin Talal”. Alwaleed Bin Talal Foundations. オリジナルの2013年2月4日時点におけるアーカイブ。 2012年11月1日閲覧。
- ^ “4 Leila El Solh”. Arabianbusiness.com 2012年11月1日閲覧。