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リヤード・アッ=スルフ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
リヤード・アッ=スルフ
رياض الصلح
リヤード・アッ=スルフ
生年月日 1894年
出生地 オスマン帝国の旗 オスマン帝国サイダー
没年月日 1951年7月17日
死没地 ヨルダンの旗 ヨルダンアンマン
出身校 パリ大学
配偶者 ファイザ・アル=ジャビーリ

在任期間 1943年9月25日 - 1945年1月10日
大統領 ビシャーラ・アル=フーリー

在任期間 1946年12月14日 - 1951年2月14日
大統領 ビシャーラ・アル=フーリー
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リヤード・アッ=スルフアラビア語: رياض الصلح, ラテン文字転写: Riad as-Solhriyāḍ al-ṣulḥ1894年 - 1951年7月17日)は、レバノン共和国政治家首相を2期務めた。

スンナ派ムスリムの政治リーダーであり、レバノン独立闘争の中で最も重要な人物であるのと同時に、様々な宗派が存在するレバノンにおいて、独立のために宗派間の協力を可能にする個性を持った人物として評価されるべきである。

生涯

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レバノン南部サイダー(シドン)に生まれる。パリ大学で法律と政治学を学んだ[1]

第1次スルフ内閣は独立直後の1943年から約1年半続き、第2次スルフ内閣は、マロン派信徒の大統領であるビシャーラ・アル=フーリーと協力する上での宗派間のバランスを図った内閣であった。フーリーは、ムスリムの意見を集約する手腕に長けていたスルフを評価しており、ムスリムもまた、スルフが存在している限り、自らの利益が政策に反映されることもあって、大きな信頼を寄せていた。

しかし1951年7月ヨルダン訪問中のスルフは、シリア社会民族党の党員によって暗殺されてしまった。スルフの死によって、民族間のバランスの上に立っていたフーリー政権は、ムスリムの支持を徐々に失っていき、ドゥルーズ出身のカマール・ジュンブラートの台頭を許すこととなった。

娘のムナー(モナ)は、サウジアラビア国王アブドゥルアズィーズ・イブン・サウードの息子のタラール王子と結婚し、アル=ワリード・ビン・タラール王子を産んだ[2]。末娘のライラは、アル=ワリード・ビン・タラール人道財団の副事務局長で、元レバノン産業大臣[3]である。

脚注

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ベイルートの繁華街に立つスルフの銅像