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リュブリャナ - トリエステ線

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
リュブリャナ - トリエステ線
基本情報
通称 オーストリア南部鉄道本線
スロベニアの旗 スロベニア, イタリアの旗 イタリア
起点 リュブリャナ駅
終点 トリエステ中央駅
駅数 22駅
路線記号 50(スロベニア)、63(イタリア)
開業 1856年11月20日
路線諸元
路線距離 149 km
軌間 1435 mm(標準軌
線路数 複線
複線区間 全区間
電化区間 全区間
電化方式 3000 V(直流
架空電車線方式
最高速度 160 km/h
テンプレートを表示
停車場・施設・接続路線
ABZg+l
ドボヴァ - リュブリャナ線リュブリャナ - メトリカ線
BHF
0.0 リュブリャナ駅
ABZgr
リュブリャナ - タルヴィージオ線リュブリャナ - カムニック線
HST
2.0 リュブリャナ・ティヴォリ
BHF
8.1 ブレゾヴィツァ
eABZgr
Vrhnika方面旧線
HST
12.3 ノトラニェ・ゴリツェ
HST
14.8 プレセリエ
eABZgl exSTR+r
1944年、1947年移設
BHF exSTR
20.8 ボロヴニツァ
exSTR+l exKRZu exSTRr
exSTRl eABZg+r
1944年、1947年移設
hSTRae
フランツドルフ高架橋
HST
32.1 ヴェルド
BHF
41.4 ロガテツ
HST
49.0 プラーニナ
eZOLL
ユーゴスラビア=イタリア旧国境(1920~1945)
BHF
55.5 ラケク
BHF
67.1 ポストイナ
BHF
73.6 プレストラネック
BHF
80.0 ピヴカ
ABZgl
ピヴカ - リイェカ線
HST
87.9 コシャナ
HST
91.8 ゴルニェ・レジェチェ
BHF
103.9 ディヴァチャ
ABZgl
ディヴァチャ - プラ線
ABZg+l
ディヴァチャ三角線
HST
107.7 ポヴィル
ABZg+r
イェセニツェ - トリエステ線
BHF
113.5 セジャナ
GRENZE
116.8
32.511
スロベニア / イタリア
eBS2+l BS2+r
移設区間
KDSTxa STR
Autoporto Fernetti
xABZgl ABZg+r
xKRZu ABZg+r
イェセニツェ - トリエステ線
exBHF STR
Opicina campagna 310m
exSTR BHF
28.5 ヴィラ・オピチナ 302 m
exABZgl eABZgr
Verbindungsbahn
exSTR ABZgl
nach Trieste Campo Marzio方面
exSKRZ-Au SKRZ-Au
自動車道RA13
eBS2l BS2r
移設区間
BHF
16.4 アウリシナ 167 m
SKRZ-Ao
自動車道RA13
ABZgr
アウリシナ三角線
ABZg+r
ウーディネ - トリエステ線
eHST
Santa Croce di Trieste 110 m
eBHF
旧グリニャノ ~2010 81 m
HST
7.0 ミラマーレ
TUNNEL1
ABZgl
Trieste Gruppo Scambi Barcola
ABZgr
イェセニツェ - トリエステ線
KBHFe
0.0 トリエステ中央駅 3 m

リュブリャナ - トリエステ線はスロベニアのリュブリャナとイタリアのトリエステを結ぶ幹線鉄道であり、全区間は電化および複線化されている。この路線はオーストリア南部帝国鉄道(k. k. Südliche Staatsbahn) により建設されて、1858年以降オーストリア=ハンガリー帝国で大規模な私鉄会社オーストリア南部鉄道会社(Südbahn-Gesellschaft)によって数十年間運営された。この路線はかつてのオーストリア南部鉄道本線の一部として、イタリアのトリエステのアドリア海の港まで続く。

歴史

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ウィーナー・ノイシュタットとトリエステの間の段階的な路線の提案(1841) [1]

南部鉄道

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ウィーンとアドリア海を結ぶ鉄道建設の計画は1829年既に浮かび上がった。南部鉄道の本線は初めにウィーン=グログニツ鉄道会社(Wien-Gloggnitzer Eisenbahn-Gesellschaft)により運営された。南部帝国鉄道は1851年5月1日に路線運営を引き継いで、 1858年5月23日に民間企業の帝国特認南部鉄道会社(k. k. privilegierte Südbahn-Gesellschaft)に売却された。1854年にゼンメリング区間の開通によりウィーン - リュブリャナ区間は継続的に通行可能となった。

ボロヴニカ高架橋(ジオヴァンニ・ヴァロネ [1832–1910] の絵画作品)
マリボル - トリエステ区間(1899年)

ライバッハ - トリエステ区間工事を続行するには難事が多かった。リュブリャナ湿地もアドリア海に面して急傾斜なクラス地方も克服すべきの建設課題となった。まずは1856年11月20日にライバッハ - アーデルスベルク(ポストイナ)区間が開通された[2]。リュブリャナ湿地は長さ2400 m、最大高さ15 mの路盤が横断した。長さ584 m、二階アーチ構造のボロヴニカ高架橋はボロヴニカの近くに建設された。最後の区間は1857年7月27日に開業された[2]。アウリシーナのカルスト地形を通過するには、14の高架橋が建設されねばならなかった。この路線は現在のトリエステ中央駅で終わる[3]

カルニオラ地域およびオーストリア沿海地域(Österreichisches Küstenland)は、南部鉄道建設の過程で飛躍的に発展した。人々は、ハプスブルク帝国の主要港であるトリエステと同じくらい簡単に、急成長したウィーン地域にも到達できた。帝国全体には効率的な交易路が生成され、その経路を通じて貿易業務はオリエントまで処理できた。鉄道は観光業に非常に有益で、たとえば、路線上にあったポストイナ鍾乳洞ビーダーマイヤー時代によく知られた。ザグレブへの通行はより簡素化された。イストラ半島が「オーストリアのリビエラ」となったのは、南部鉄道なしに不可能だったろう。オーストリア=ハンガリー海軍はトリエステとプーラを根拠地として、南部鉄道を介してウィーンの帝国戦争省(k.u.k. Kriegministerium)との連絡を維持した。

1869年からトリエステではリエカ(フィウメ)、ヴェネツィアハンブルクジェノヴァの港との新たな競争に不満が表明されて、それがトリエステの「補助鉄道線」の建設問題となった。いわゆる「トリエステ鉄道問題」または「トリエステの二番目の鉄道接続問題」は、1891年オーストリア貿易協会(Österreichischer Gewerbeverein)およびオーストリア技術人・建築人協会(Österreichischer Ingenieur- und Architekten-Verein)が取り上げて、さまざまな考慮事項を議論した[4][5]

1906年にフィラッハ - ローゼンバッハ線、ボヒニー線おとびカルスト線が開通された際に、トリエステ鉄道問題は解決されたと見なされた。1917年9月24日にプラーニナ駅で軍用列車と貨物列車の衝突事故が発生して、29人が死亡し51人が怪我を負った[6]

ユーゴスラビア鉄道

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1918年第一次世界大戦後国境が変更されて、ウィーン - トリエステ鉄道はオーストリア、ユーゴスラビア、イタリアに分割された。ラパッロ条約の締結された1920年から1945年まで、ユーゴスラビアとイタリアの国境はプラニナにあったため、ポストイナはイタリアに属することとなった。この国境は1945年から1991年までセザナの近くにあって、1991年にはスロベニアとイタリアの国境線となった。セザナからトリエステまでの最南端区間は1947年から1954年までトリエステ自由地域に属して、その後イタリアの一部となった。

スロベニア鉄道

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2021年6月11日にこの路線にトリエステからウィーンまで走行するユーロシティ路線が再び導入された[7]

イタリア国鉄

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運行形態

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オーストリアンリビエラの景色に関する、1898年の南部鉄道会社の宣伝ポスター。

伝統的な南部鉄道は、スロベニアにおける鉄道交通の2つの主要な軸の1つである。南部鉄道の本線は現在でもスロベニアとオーストリアとイタリアの間の国際的な連絡線として機能する。オーストリアとチェコの場合、南部鉄道は依然としてアドリア海と連結されており、貨物がアドリア海の港に輸送されている。四つの国がすべて欧州連合に加盟しており、商品の移動がはるかに容易となった。なおシェンゲン協定への参加により、乗客の旅券確認が廃止された。

  • EC: ウィーン - ウィーナー・ノイシュタット - ブルック(ムル) - グラーツ - マリボル - チェリエ - ジダニ・モスト - リュブリャナ - ロガテツ - ポストイナ - ピヴカ - ディヴァチャ - セジャナ - ヴィラ・オピチナ - トリエステ。1日1往復[8]

参考文献

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  • Benesch, Fritz (1910) (ドイツ語). Verkehrsbuch österreichischer Eisenbahnen. 6: Krain und Küstenland. Vienna: Reisser. オリジナルの30 November 2016時点におけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20161130073740/http://www.dlib.si/stream/URN:NBN:SI:DOC-NT07IPF3/4d53e2ab-5f9e-44e8-b576-aa4547c35769/PDF 16 November 2020閲覧。 
  • Dultinger, Josef (1985) (ドイツ語). Die 'Erzherzog-Johann-Bahn'. Erste Eisenbahnverbindung der Reichshaupt- und Residenzstadt Wien mit der Stadt und dem Adriahafen Triest. Rum: Erhard 
  • Heless, Hermann (1994). Dietrich, Herbert. ed (ドイツ語). Die Südbahn und ihre Vorläufer. Vienna: Bohmann-Verlag. ISBN 3-7002-0871-5 
  • Hlubek, Franz Xaver (1841) (ドイツ語). Der Verkehr zwischen Triest und der Monarchie, und die Wien-Triester Eisenbahn. Mit einer Zeichnung, welche die Richtung der projectirten Bahn darstellt. Vienna: Gerold 
  • Mandl, August; Seidl, Johann Gabriel (1858) (ドイツ語). Die Staatsbahn von Wien bis Triest mit ihren Umgebungen, geschildert von August Mandl. Trieste: Literarisch-artistische Abtheilung des Österreichischen Lloyd 
  • Herman Strach (1898) (ドイツ語). Geschichte der Eisenbahnen Österreich-Ungarns von den ersten Anfängen bis zum Jahre 1867. Geschichte der Eisenbahnen der Österreichisch-Ungarischen Monarchie. band 1.1. Wien / Teschen / Leipzig: Karl Prochaska. pp. 73 ff.. https://archive.org/details/geschichtedereis11aust/page/n7/mode/2up 
  • RFI, ed (December 2003) (イタリア語). Fascicolo Linea 63 (Trieste Centrale–Villa Opicina). Rete Ferroviaria Italiana 

脚注

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  1. ^ Hlubek 1841. オーストリア文献オンライン(Austrian Literatur Online, ALO)の資料。
  2. ^ a b Strach, 1898. Band 1.1, p. 283
  3. ^ (ドイツ語) Zur Erinnerung an die Eröffnung der Staats-Eisenbahn von Laibach bis Triest (…) am 27. Juli 1857. Vienna: k.k. Hof- und Staatsdruckerei. (1857) 
  4. ^ Büchelen, Carl (1891). “Ueber die Frage der sogenannten zweiten Bahnverbindung unserer Reichshälfte mit ihrem Seehafen Triest (part 1/3)” (ドイツ語). Wochenschrift of the Österreichischer Ingenieur- und Architekten-Verein XVI (49): 446–449. http://anno.onb.ac.at/cgi-content/anno-plus?apm=0&aid=ina&datum=18910000&page=508 20 November 2020閲覧。. 
  5. ^ Büchelen, Carl (1891). “Ueber die Frage der sogenannten zweiten Bahnverbindung unserer Reichshälfte mit ihrem Seehafen Triest (part 3/3)” (ドイツ語). Wochenschrift of the Österreichischer Ingenieur- und Architekten-Verein XVI (51): 471–474. http://anno.onb.ac.at/cgi-content/anno-plus?apm=0&aid=ina&datum=18910000&page=537 20 November 2020閲覧。. 
  6. ^ Ludwig Stockert: Eisenbahnunfälle (Neue Folge) – Ein weiterer Betrag zur Eisenbahnbetriebslehre. Berlin 1920, Nr. 307 (ドイツ語)
  7. ^ “Verbindung Wien–Trieste auf alter Südbahn reaktiviert” (ドイツ語). Eisenbahn-Revue International (Heft 8–9/2021): S. 424 f. ISSN 1421-2811. 
  8. ^ New direct connection: Vienna–Ljubljana–Trieste” (英語). potniski.sz.si. SŽ-Potniški promet (2021年6月11日). 2021年10月19日閲覧。

外部リンク

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