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リンチェン・タシー

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

リンチェン・タシー(Rin chen bkra shis、生没年不詳)は、チベット仏教サキャ派仏教僧大元ウルスにおける10代目の帝師を務めた。

漢文史料の『元史』では輦真乞剌失思(niǎnzhēn qǐlàshīsī)と表記される。

概要

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『元史』によると天暦2年(1329年)12月に帝師に任命され[1]、チベットから朝廷に至ったとされる[2]。しかし、釈老伝はこの人物の帝師就任を最後として歴代帝師についての記述を終えており、どのような事績があったかはほとんど記録がない。『元史』巻33文宗本紀にはリンチェン・タシーが帝師に就任した月の末に「故帝師の舎利をその国に還した」との記述があり[3]、稲葉正就はこの「故帝師」がリンチェン・タシーであって、就任の直後に死去したのではないかと推測している[4]

チベット語史料側には同名の人物は見られないが、tucci教授は『フゥラン・テプテル』に見える「リンチェンタク国師」なる人物こそが「輦真乞剌失思」と同一人物ではないかと推測している[5]。『フゥラン・テプテル』は第2章「シナ・チベットの歴史」の元になった文書を「宋祁(Su khyi)というものが著わし、後に范祖禹(Han gsi hus)が蒐めて編纂し、シナのロツァワ・バフゥギャンジュ(Ba hu gyan ju)が乙酉の年に臨洮(Çin kun)において翻訳し、ラマ・リンチェンタク国師(Rin chen grags gu çrhi)が乙丑の年にチベット文字で印刷に付したものである」としており、リンチェンタクは宋祁が編纂した『新唐書』吐蕃伝のチベット語訳を出版したことで知られているようである[6]。上述の「乙丑年」は1325年を指す可能性が高いことも、輦真乞剌失思=Rin chen grags説を裏付けている[5]

脚注

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  1. ^ 『元史』巻202列伝89釈老伝,「天暦二年、以輦真乞剌失思嗣」
  2. ^ 『元史』巻33文宗本紀2,「[天暦二年]十二月甲申……以西僧輦真乞剌失思為帝師」
  3. ^ 『元史』巻33文宗本紀2,「[天暦二年十二月]己亥、遣使駅致故帝師舎利還其国、給以金五百両・銀二千五百両・鈔千五百錠・幣五千匹」
  4. ^ 稲葉1965,144頁
  5. ^ a b 稲葉1965,145頁
  6. ^ 佐藤/稲葉1964,11-13頁

参考文献

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  • 乙坂智子「サキャパの権力構造:チベットに対する元朝の支配力の評価をめぐって」『史峯』第3号、1989年
  • 佐藤長/稲葉正就共訳『フゥラン・テプテル チベット年代記』法蔵館、1964年
  • 中村淳「チベットとモンゴルの邂逅」『中央ユーラシアの統合:9-16世紀』岩波書店〈岩波講座世界歴史 11〉、1997年
  • 中村淳「モンゴル時代の帝師・国師に関する覚書」『内陸アジア諸言語資料の解読によるモンゴルの都市発展と交通に関する総合研究 <科学研究費補助金(基盤研究(B))研究成果報告書>』、2008年
  • 野上俊静/稲葉正就「元の帝師について」『石浜先生古稀記念東洋学論集』、1958年
  • 稲葉正就「元の帝師について -オラーン史 (Hu lan Deb gter) を史料として-」『印度學佛教學研究』第8巻第1号、日本印度学仏教学会、1960年、26-32頁、doi:10.4259/ibk.8.26ISSN 0019-4344NAID 130004028242 
  • 稲葉正就「元の帝師に関する研究:系統と年次を中心として」『大谷大學研究年報』第17号、大谷学会、1965年6月、79-156頁、NAID 120006374687 
先代
クンガ・レクペー・ジュンネー・ギェンツェン・パルサンポ
大元ウルス帝師
1329年 - 1332年
次代
クンガ・ギェンツェン・パルサンポ