コンテンツにスキップ

英文维基 | 中文维基 | 日文维基 | 草榴社区

ルイーズ=イポリット (モナコ女公)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
ルイーズ=イポリット
Louse-Hippolyte
モナコ女公
在位 1731年2月20日 - 12月29日

出生 (1697-11-10) 1697年11月10日
モナコ公国モナコ大公宮殿
死去 (1731-12-29) 1731年12月29日(34歳没)
モナコ公国、モナコ大公宮殿
埋葬 モナコ公国聖ニコラ大聖堂英語版
配偶者 ジャック・フランソワ・ゴワイヨン・ド・マティニョン
子女 一覧参照
家名 グリマルディ家
父親 モナコ公アントワーヌ1世
母親 マリー・ド・ロレーヌ
テンプレートを表示

ルイーズ=イポリット・ド・モナコLouse-Hippolyte de Monaco, 1697年11月10日 - 1731年12月29日)は、モナコ女公[1]。現在のモナコ公家の先祖。

生涯

[編集]

モナコ公アントワーヌ1世と妃でアルマニャック伯ルイの娘マリー・ド・ロレーヌの娘として、1697年11月10日に生まれた[2]。姉カトリーヌ=シャルロット(1690年10月7日 – 1696年6月18日)は5歳で夭逝し[2]、男の兄弟が(嫡子では)いないため、ルイーズ=イポリットが次期継承者とされた。アントワーヌはフランスルイ14世の許しを得て、娘の未来の夫はルイーズ=イポリットの共同統治者となり、グリマルディの姓を与えることに決めた。

1715年10月20日、18歳でルイーズ=イポリットはジャック・フランソワ・ゴワイヨン・ド・マティニョンと結婚し、8子を生んだ[2]。この結婚は不幸だった。ジャックはモナコよりも、華やかなヴェルサイユ宮殿暮らしを好み、多くの愛妾を抱えていたからである。

父の死により、ルイーズ=イポリットは1731年4月にパリからモナコへやってきて、国民により歓迎会が開かれた。その歓迎会に出席したジャックが加わると、会場の雰囲気が冷ややかなものに変わったという。同年12月29日[2]、ルイーズ=イポリットは天然痘で急死した。ジャックは国事を放棄したうえ、翌1732年5月にはモナコを離れてフランスへ戻った。彼は1733年11月8日に長男オノレに公位を譲った[2]

子女

[編集]
  • アントワーヌ・シャルル・マリー(1717年12月16日 - 1718年2月24日) - ド・ボー侯爵[2]
  • シャルロット・テレーズ・ナタリー(1719年3月19日 - 1790年) - 「マドモアゼル・ド・モナコ」、修道女
  • オノレ・カミーユ・レオノール(1720年9月10日 - 1795年5月12日) - モナコ公オノレ3世
  • シャルル・マリー・オーギュスト(1722年1月1日 - 1749年8月24日) - カルラデス伯爵[2]
  • ルイーズ・フランソワーズ(1724年7月15日 – 1724年9月15日) - 「マドモアゼル・ド・ボー」[2]
  • フランソワ・シャルル(1726年2月4日 - 1743年12月9日) - トリニー伯[2]
  • シャルル・モーリス(1727年5月14日 - 1798年1月18日) - ヴァランティノワ伯爵[2]
  • マリー・フランソワーズ・テレーズ(1728年7月20日 - 1743年6月20日) - 「マドモアゼル・ド・エストゥトヴィル」[2]

引用・脚注

[編集]
  1. ^ モナコ公国(Principality of Monaco) 基礎データ”. 日本国外務省 Ministry of Foreign Affairs of Japan. 2020年2月10日閲覧。
  2. ^ a b c d e f g h i j k Edwards, Anne (2017) [1992]. "Tableau Genealogique de la Famille Grimaldi". The Grimaldis of Monaco (英語). Guilford, Connecticut: Lyons Press. p. 347. ISBN 0-688-08837-6

外部リンク

[編集]

ウィキメディア・コモンズには、ルイーズ=イポリット (モナコ女公)に関するカテゴリがあります。

先代
アントワーヌ1世
モナコ公
1731年
次代
ジャック1世