ルイーゼ・ツー・メクレンブルク (1824-1859)
ルイーゼ Luise | |
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メクレンブルク=シュヴェリーン家 | |
ルイーゼ・ツー・メクレンブルクの肖像画(ヨーゼフ・カール・シュティーラー画、1849年) | |
出生 |
1824年5月17日 メクレンブルク=シュヴェリーン大公国、ルートヴィヒスルスト |
死去 |
1859年3月9日(34歳没) オーストリア帝国 ロンバルド=ヴェネト王国、ヴェネツィア |
埋葬 | オーストリア帝国、リティヤ郊外、ヴァーゲンスベルク城 |
配偶者 | フーゴー・ツー・ヴィンディシュ=グレーツ |
子女 |
アレクサンドリーネ オルガ フーゴー マリー |
父親 | パウル・フリードリヒ・ツー・メクレンブルク |
母親 | アレクサンドリーネ・フォン・プロイセン |
宗教 | キリスト教ルーテル教会 |
ルイーゼ・ツー・メクレンブルク(ドイツ語: Luise Herzogin zu Mecklenburg[-Schwerin], 1824年5月17日 - 1859年3月9日)は、ドイツ・メクレンブルク=シュヴェリーン大公家の大公女。
生涯
[編集]1824年5月17日、メクレンブルク=シュヴェリーン大公パウル・フリードリヒと、その妻のプロイセン王女アレクサンドリーネ夫妻の間の第2子、長女としてルートヴィヒスルスト(メクレンブルク=フォアポンメルン州ルートヴィヒスルスト郡)で生まれた。洗礼名は母方の祖母であるプロイセン王妃ルイーゼに因んでルイーゼ・マリー・ヘレーネ(Luise Marie Helene)となった。
1849年10月20日にオーストリア帝国の陸軍元帥アルフレート・ツー・ヴィンディシュ=グレーツ侯爵の弟、ヴェーリアント・ツー・ヴィンディシュ=グレーツ侯爵の長男フーゴー(1823年 - 1904年)と結婚した。1859年3月、ヴェネツィア滞在中に発病して急死した。葬儀は婚家の持ち城の1つ、リティヤ郊外のヴァーゲンスベルク城(Schloss Wagensberg)で行われた。婚家はカトリック信徒だったため、リュブリャーナから福音派教会の主任牧師ルートヴィヒ・テオドール・エルツェが呼ばれ、司式を取り仕切った。
夫は1867年10月9日にマティルデ・ラジヴィウ公女と再婚した。そして同月27日の父の死と同時に、弟系ヴィンディシュ=グレーツ侯爵家の家督を継いだ。
子女
[編集]夫との間に4人の子女をもうけた。
- アレクサンドリーネ・マリー(1850年 - 1933年)
- オルガ・マリー・フリーデリケ(1853年 - 1934年) - 1876年、アンドレア・モチェニゴ伯爵と結婚(1878年死別)
- フーゴー・ヴェーリアント・アレクサンダー・ヴィルヘルム・アルフレート(1854年 - 1920年) - 弟系ヴィンディシュ=グレーツ侯、1885年にアウエルスペルク侯女クリスティアーネと結婚
- マリー・ガブリエーレ・エルネスティーネ・アレクサンドラ(1856年 - 1929年) - 考古学者、1881年にメクレンブルク公パウル・フリードリヒと結婚
なお、夫と後妻の間の3人の子はいずれも早世した。
参考文献
[編集]- Theodor Elze: Rede bei der Beisetzung der Leiche Ihrer Hoheit Luise Fürstin von Windischgrätz, Herzogin von Mecklenburg-Schwerin, auf Schloss Wagensberg den 21. März 1859. Laibach: Kleinmayr & Bamberg 1859
外部リンク
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