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ルイ=ピエール・アンリケル=デュポン

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
ルイ=ピエール・アンリケル=デュポン
Louis-Pierre Henriquel-Dupont
1960年代後半のアンリケル=デュポン
誕生日 (1797-06-13) 1797年6月13日
出生地 フランス、パリ
死没年 1892年1月20日(1892-01-20)(94歳没)
死没地 フランス、パリ
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ルイ=ピエール・アンリケル=デュポン(Louis-Pierre Henriquel-Dupont、1797年6月13日 - 1892年1月20日)は、フランスの版画家である。

略歴[編集]

パリで生まれた。父親のジョゼフ・ピエール・アンリケル(Joseph Pierre Henriquel: 1747-1826)はルーアン生まれの版画家で、デュポンの通称で活動していて、父親から美術を学んだ。1811年から1814年の間は、パリの美術学校で学び、1812年から画家のピエール=ナルシス・ゲランの学生になった。ゲランの勧めで銅版画に取り組み、版画家のシャルル・クレマン・ヴァルヴェー(Charles Clément Balvay: 1756-1822)の版画を研究した。

1816年からコンテストに参加を始め、1818年のローマ賞の凹版画部門で3位になった後[1]、自らの工房を開いた。絵入り本の出版社のために働いた後、1822年にアンソニー・ヴァン・ダイクの肖像画の複製版画を出版し、その後、一連の有名な画家の絵画の複製版画の出版を続け、その際立った技術が認められた。アンリケル=デュポンが複製版画を制作した画家の作品にはポール・ドラローシュドミニク・アングルなどの同時代の画家の作品やパオロ・ヴェロネーゼなどのルネサンスの画家の作品もある。

1849年に芸術アカデミーの会員に選ばれた。1863年からパリ国立高等美術学校の教授を務め、1868年にフランス版画家協会(Société française de gravure)を設立した。レジオンドヌール勲章は1831年にシュヴァリエ、1855年にオフィシエ、1876年にコマンドゥールを受勲した。1867年にはベルギーのレオポルト勲章も受勲した[2]

作品[編集]

脚注[編集]

  1. ^ « Archives de l'art français : recueil de documents inédits relatifs à l'histoire des arts en France, publié sous la direction de Ph. de Chennevières (p. 317)  », sur Gallica
  2. ^ Orden pour le Mérite für Wissenschaften und Künste: Die Mitglieder des Ordens, Erster Band (1842–1881), Berlin 1975, Seite 274. Auf Seite 275 befindet sich ein Bild des Künstlers.

参考文献[編集]

  • Emmanuel Bénézit (Begr.): Dictionnaire critique et documentaire des peintres, sculpteurs, dissinateurs et graveurs de tous des temps et de tous des pays, Band 6. Gründ, Paris 1999, ISBN 2-7000-3031-1.