ルエラ・パーソンズ

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ルエラ・パーソンズ
Louella Parsons
1937年
ペンネーム Louella Parsons
誕生 Louella Rose Oettinger
(1881-08-06) 1881年8月6日
アメリカ合衆国
イリノイ州フリーポート英語版
死没 (1972-12-09) 1972年12月9日(91歳没)
アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国
カリフォルニア州サンタモニカ
職業 コラムニスト
言語 英語
教育 教職課程
最終学歴 ディクソン・カレッジ
ジャンル ゴシップ
主題 ハリウッドセレブ
配偶者 ジョン・デメント・パーソンズ(1905-14年、離婚、娘1人)
ジョン・マキャフリー・ジュニア(1915-?、離婚)
ハリー・W・マーティン(1930-51年、死別)
子供 ハリエット・パーソンズ英語版(1906年-1983年)
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ルエラ・パーソンズ英語: Louella Parsons1881年8月6日 - 1972年12月9日)は、アメリカ合衆国で初の映画コラムニストウィリアム・ランドルフ・ハーストの愛人マリオン・デイヴィスを称賛したため、ハーストに雇われ、世界中の400紙の新聞の2000万人の読者が彼女のコラムを読んだ。

パーソンズは同じような才能を発揮する華やかなヘッダ・ホッパーが登場するまで、ハリウッドの女王として君臨した。2人は長期にわたって反目した。

生い立ち[編集]

母ヘレン(旧姓スタイン)と父ジョシュア・エッティンガーを両親に、出生名ルエラ・ローズ・エッティンガーとしてイリノイ州フリーポート英語版に生まれる。父親と母方の祖父はドイツ系ユダヤ人の血を引き、母方の祖母ジャネット・ウイルコックスはアイルランド人の血を引いていた。パーソンズの幼少期、両親は米国聖公会に通った[1]。エドウィン、フレッドという2人の兄弟とレイという姉妹がいた。1890年、未亡人となっていた母親はジョン・H・エドワーズと再婚。一家は後にロナルド・レーガンが少年期を過ごすイリノイ州ディクソン英語版に住んだ。

10代で既に如才のない知的な女性となっていたが、野心の文学的な捌け口が殆ど無く、高校までは作家や記者になろうという志望は持っていなかった。1901年6月4日、高校の卒業式でパーソンズは「偉人」と題するスピーチを読み上げた。スピーチ後、校長は彼女が大作家になるだろうと公言した[2]

高校卒業後、地元ディクソン・カレッジの教職課程に籍を置いた。在学中、学生新聞「ディクソン・スター」の嘱託記者となり、人生で初めて新聞と関わりを持つ職を得た。1902年、ディクソン初の女性ジャーナリストとなってディクソン社交界のゴシップを扱い、ハリウッドへの第一歩を踏み出した[3]

最初の夫ジョン・パーソンズと共にアイオワ州バーリントンに転居。後に映画プロデューサーとなった唯一の子供ハリエット英語版(1906年–1983年)は、この地で生まれた。バーリントン時代に初めて映画(『大列車強盗』(1903年))を鑑賞する。

ジョン・パーソンズと離婚後シカゴに移る。1912年、直後にチャールズ・チャップリンと契約を結ぶエッサネイ・スタジオに25ドルで脚本を売り、映画界と最初の接触を果たす[4]。また「How to Write for the Movies」と題する本も書いている。幼い娘ハリエットは、ルエラ・パーソンズが脚本を書いた『The Magic Wand』(1912年)など数本の映画に「ベイビー・パーソンズ」として出演した。

経歴[編集]

1914年、シカゴ・レコード=ヘラルド紙でアメリカ合衆国初となる映画界のゴシップ記事を書き始める[4]。1918年、ウィリアム・ランドルフ・ハーストが同紙を買収、ハーストは映画や映画俳優がニュースになる事にまだ気付いていなかったので、パーソンズは失業してしまう。ニューヨークに移ってニューヨーク・モーニング・テレグラフ紙に同じような映画コラムを書いていたところ、これがハーストの目に留まった。1923年、交渉の末、ハーストと契約してニューヨーク・アメリカン紙に参加する。

1925年、結核に罹り余命6ヶ月と診断される。乾燥した気候を求めてアリゾナ州へ移り、更にロサンゼルスに向かって、その地にとどまる決意をする。症状が治まると仕事に復帰し、ハースト・コーポレーションのためにハリウッドの記事を供給するコラムニストとなった。出版界の大物との関係が強固になったことにより、彼女のロサンゼルス・エグザミナー英語版紙のコラムは全世界の新聞に掲載され、2000万人以上の読者の目に触れるようになり、パーソンズは次第に映画界で最も発言権のある1人になっていった。ハーストの愛人で被保護者のマリオン・デイヴィスによれば、大多数の批評家がデイヴィスを酷評する中にあって、パーソンズは読者に向けて「この女の子にチャンスを与えて」と訴えかけ、これがハーストがパーソンズを雇う決め手となった[5]

1928年からサンキスト・グローワーズが提供する、毎週映画スターにインタビューするラジオ番組のパーソナリティーを務めた。 1931年の同じような趣向の番組はハーリス・ファンデーション・ガーメントが提供した。1934年、キャンベル・スープ・カンパニーと契約を結び、近日公開される映画に出演しているスターを紹介する「ハリウッド・ホテル英語版」という番組の司会を開始。

ルエラに秘密を明かすジューン・アリソン (1946年)

基盤を安定させるために様々なハースト関連企業と関わりを持った。彼女は自身をハリウッドの社会的・道徳的権威者と見なしていた。彼女の評価は多くの場合に最終通告と見なされ、彼女の不興は映画批評家のものより遥かに恐れられていた。最終的にはパーソンズの毎日のゴシップコラムは、世界中の400紙以上の新聞に掲載され、2000万人以上が読んでいた[4]。1938年、彼女の非公式な称号「ハリウッドの女王」は、初めのうちは友好的で協力的だった新人のヘッダ・ホッパーによって挑戦を受けた。しかし彼女たちは激しいライバルになった。ホッパーは2人の内でも、より悪質で不寛容な人物と見なされるに至った[6]

パーソンズは『聖林ホテル』(1937年)、『恋愛超特急』(1946年)、『Starlift』(1951年)など、多数の映画にカメオ出演している。

1944年、ベストセラーとなった回想録「The Gay Illiterate」を執筆、ダブルデイ、ドラン・アンド・カンパニーより出版された。1961年、続けて「Tellella to Louella」という本をG・P・プットナムズ・サンズ英語版から出版。

メモを取るパーソンズ(1956年)

1950年代以降はパーソンズの影響力は減少した。1965年12月までコラムを続けたが、その時点でアシスタントのドロシー・マナーズが既に1年以上コラムを引き継いで書いていた[4]

私生活[編集]

画像外部リンク
1940年、ハリー・マーティンとルエラ・パーソンズ(英語版Wikipedia)

彼女は3回結婚している。1905年、最初の夫である不動産開発業者・仲買人のジョン・デメント・パーソンズと結婚。2人の間には1906年8月23日にアイオワ州デモイン郡バーリントンで生まれたハリエットという1人娘がいた。 ハリエットは母親の執筆に対する情熱を引き継ぎ、若い頃に映画雑誌のライターを務めていた。1914年にジョンと離婚。1年後の1915年、2人目の夫ジョン・マキャフリー・ジュニアと結婚するも後に離婚。1930年、ロサンゼルスの軍医ハリー・マーティン英語版博士(彼女は「ドッキー」と呼んでいた)と3度目の結婚。マーティンは第一次世界大戦第二次世界大戦中に陸軍医療隊で働いた。2人は1951年6月24日にマーティンが死去するまで添い遂げた[7]

晩年と死去[編集]

引退後、パーソンズは1972年12月9日に満91歳で動脈硬化症により死去するまで、特別養護老人ホームに住んでいた。カトリックに改宗していた[8][9]、彼女の葬儀には映画業界から彼女が真の友情を維持していた個々人が参列した。彼女はカルバーシティホーリー・クロス墓地に埋葬された[10]

ルエラ・パーソンズはハリウッド・ウォーク・オブ・フェームに2つの星型プレートを持っている。1つは映画への貢献に対してハリウッド大通り6418に、もう1つはラジオへの貢献に対してハリウッド大通り6300に[11]

大衆文化において[編集]

音声[編集]

脚注[編集]

  1. ^ Barbas, Samantha (2005). The First Lady of Hollywood: A Biography of Louella Parsons. California: University of California Press. p. 9. ISBN 0-520-24213-0. https://books.google.ca/books?id=IHDXmW_Cda8C&dq=Louella+Parsons&source=gbs_navlinks_s 
  2. ^ Barbas, Samantha (2005). The First Lady of Hollywood: A Biography of Louella Parsons. California: University of California Press. pp. 15–17. ISBN 0-520-24213-0. https://books.google.ca/books?id=IHDXmW_Cda8C&dq=Louella+Parsons&source=gbs_navlinks_s&hl=en 
  3. ^ Barbas, Samantha (2005). The First Lady of Hollywood: A Biography of Louella Parsons. California: University of California Press. p. 19. ISBN 0-520-24213-0. https://books.google.ca/books?id=IHDXmW_Cda8C&dq=Louella+Parsons&source=gbs_navlinks_s&hl=en 
  4. ^ a b c d Louella Parsons: American newspaper writer”. Encyclopedia Britannica. 2017年5月18日閲覧。
  5. ^ Davies, Marion (1975). Pfau, Pamela; Marx, Kenneth S.. eds. The Times We Had: Life with William Randolph Hearst. Indianapolis: Bobbs-Merrill. ISBN 9780672521126 
  6. ^ Niven, David (1975). Bring On the Empty Horses. New York: Putnam. p. 69. ISBN 9780399115424. "[Louella Parsons and Hedda Hopper] were an unlikely couple, but they had one thing in common-they loathed each other." 
  7. ^ Dr. Martin is dead. Fox Film official. New York Times. June 25, 1951
  8. ^ Louella Parsons - Notable Names Database(英語)
  9. ^ Barbas, Samantha (2005). The First Lady of Hollywood: A Biography of Louella Parsons. California: University of California Press. pp. 131,199. ISBN 0-520-24213-0. https://books.google.ca/books?id=IHDXmW_Cda8C&dq=Louella+Parsons&source=gbs_navlinks_s 
  10. ^ Louella Parsons - Find a Grave(英語)
  11. ^ Louella O. Parsons - Hollywood Star Walk”. Los Angeles Times. 2017年5月18日閲覧。
  12. ^ Shakespeare In Hollywood”. kenludwig.com. 2017年5月18日閲覧。
  13. ^ LOUELLA PERSONS PRÓRROGA EL MES DE MARZO!!!”. acasadelaportera.com (2013年3月4日). 2017年5月18日閲覧。

参考文献[編集]

  • Wagner, Rob Leicester (2000). Red Ink White Lies: The Rise and Fall of Los Angeles Newspapers 1920-1962. Dragonflyer Press. ISBN 0-944933-80-7 

外部リンク[編集]