ルドルフ・スプラットマン
旧式の表記ではワゲ・スプラットマン (Wage Soepratman)、また通称では W・スプラットマン(W. Supratman) として広く知られた、ワゲ・ルドルフ・スプラットマン(Wage Rudolf Soepratman、1903年3月9日 - 1938年8月17日)は、プルウォレジョ県に生まれ、スラバヤに没したインドネシアのソングライターで、後にインドネシアの国歌となった『インドネシア・ラヤ』を作詞作曲した人物。インドネシア国家英雄のひとりである。
経歴
[編集]W・R・スプラットマンは、蘭印軍 (KNIL)の軍曹であった父ジョメノ・セネン・サストロスハルジョ (Djoemeno Senen Sastrosoehardjo) と、母はシティ・セネン・スプラットマン (Siti Senen. Soepratman) の間に、1903年3月9日にプルウォレジョ県の村ソモンガリ[2]。生まれて数ヶ月後に父が出生登録をした際には、名にスプラットマンが加えられ、出生地はバタヴィアのメースター・コーネリス (Meester Cornelis)(後のジァティネガラ)とされた。スプラットマンは9人きょうだいの7番目として生まれた。長兄(あるいは義兄)に、ルキイェム・スプラティヤ・ファン・エルディク (Rukiyem Supratiyah van Eldik) がいた。
ワゲ・スプラットマンは6歳のとき、チマヒのブディ・ウトモ小学校に入った。父親が退役した後、ワゲは姉ルキイェム (Rukiyem) を頼ってマカッサルへ赴き、1914年にエウロペーシェ・ラゲレ校で学ぶになった[3]。ルドルフという名は、オランダ人の生徒と対等に扱われるために、この学校にいた時から付け加えられたものであった[4]。しかし、その後ヨーロッパ系の血筋を引いていないことが露見し、彼は退学を強いられた[5]。その後、彼はマレー語の学校に移って勉強を続けた。やがて郷里に戻った彼は、ギターとバイオリンの演奏を学んだ。マレー語の学校を1917年に卒業したワゲは、オランダ語の課程に学んで1919年に卒業した[5]。その後は師範学校に学び、卒業後はマカッサルで補助教員となった[6]。
1920年、17歳の誕生日に、兄ファン・エルディク (van Eldik) が、バイオリンを贈ってくれた。この年、ワゲは、ファン・エルディクとともにジャズ・スタイルのバンドであるブラック&ホワイト (Black & White) を結成した。彼はバイオリンを演奏した。彼らはマカッサルで、結婚式や誕生日パーティーの席で演奏していた[7]。また、教員、後には『新報 (Sin Po)』の記者として働きながら、作詞、作曲を続けた[1]。
1933年7月、ワゲは病を自覚するようになった。11月には、『新報』の記者を辞職し、最初はチマヒに、次いでパレンバン、最後はスラバヤに住んだ。 1938年8月17日、午前1時にワゲは死去し、スラバヤのケンジェランに埋葬された。 1956年3月13日、彼の遺骸はタンバク・セガラン・ウェタン墓地 (Tambak Segaran Wetan cemetery) に改葬された[8]。
「インドネシア・ラヤ」
[編集]ワゲが作詞作曲した楽曲「インドネシア・ラヤ」は、後にインドネシアの国歌となった。1928年10月28日、ワゲはこの曲を第2回インドネシア青年会議の席でバイオリンを弾きながら披露した[1]。この曲はすぐさま、スカルノのインドネシア国民党 (PNI)に採用されて広まった[9]。1944年11月に歌詞の一部が修正され、旋律は、正式に国歌となった後、1958年に現行のものに編曲された。
顕彰
[編集]1971年、インドネシア政府はワゲに国家英雄の称号を贈り、Bintang Mahaputra Utama kelas III 勲章を授与した[8]。インドネシアの都市や町には、ワゲの名を街路に冠しているところがいくつかあり、例えば、W・R・スプラットマン通り (Jalan WR Soepratman) などと呼ばれている[10]。
宗教
[編集]ワゲは、アフマディーヤ派のムスリムであった[11][12]。一部の説では、ワゲはカトリックだったともいうが、1967年に出版された『Sedjarah Lagu Kebangsaan Indonesia Raya』(「国歌インドネシア・ラヤの歴史」の意)の中で遺族は、彼の亡骸がイスラム教の作法に則って洗体、埋葬されたと述べている[13]。
脚注
[編集]- ^ a b c 世界大百科事典 第2版『スプラトマン』 - コトバンク
- ^ Sularto & Yunarti 2010, p. 171
- ^ Hutabarat 2001, p. 3
- ^ Sularto & Yunarti 2010, p. 173
- ^ a b Hutabarat 2001, p. 4
- ^ Hutabarat 2001, pp. 4–5
- ^ Hutabarat 2001, p. 5
- ^ a b Sularto & Yunarti 2010, p. 176
- ^ The Muslim world: a historical survey. Modern times: Volume 4 - Page 307 H. Scheel, Gerhard Jaschke, H. Braun - 1981 "The party's emblem and the symbol of the future Free Indonesia were a red and white flag with a figure of a bull's head, and the hymn sung at its gatherings was Indonesia Raya ("Great Indonesia"), composed by Wage Rudolf Supratman "
- ^ “Location & Businesses related to "Jalan Wr. Supratman"”. Streetdirectory. Streetdirectory. 2017年9月17日閲覧。
- ^ Oladipo, Dotun (2012年2月17日). “The cold war of faith between Hamadiyya and orthodox Muslims”. The Eagle Online. 2019年11月30日閲覧。
- ^ Al Makin (2012年8月16日). “Fatherland: Soil and water”. The Jakarta Post 2017年9月27日閲覧。
- ^ Kasasengari 1967, p. 83
参考文献
[編集]- Hutabarat, Anthony C. (2001). Wage Rudolf Soepratman: Meluruskan Sejarah dan Riwayat Hidup Pencipta Lagu Kebangsaan Republik Indonesia "Indonesia Raya" dan Pahlawan Nasional. Jakarta: BPK Gunung Mulia. ISBN 978-979-687-037-0
- Sularto, St.; Yunarti, D. Rini (2010). Konflik di Balik Proklamasi: BPUPKI, PPKI, dan Kemerdekaan. Jakarta: Penerbit Buku Kompas. ISBN 978-979-709-509-3